
試衛館農民宮川久次郎の三男と
して生まれる。
幼名は勝五郎。宮川夫妻には
勝五郎の他に、 長女・リエ
(近藤の生まれる2年前に死去)、
長男・音五郎、
次男・粂蔵(粂次郎)がいた。
出身地武蔵国多摩郡上石原村
は現在の東京都調布市野水
(北西部に位置)に相当する。
戦時中の調布飛行場延長工事
により生家が取り壊されている。
嘉永元年(1849年)11月11日、
近藤は天然理心流剣術道場・
試衛館に 入門する。
盗人を退治するなどして近藤周助(近藤周斎)に認められ、周助の
実家である島崎家に養子に入り、島崎勝太と名乗る。
のちに正式に近藤家と養子縁組し、島崎勇と名乗ったのちに、
近藤勇を名乗った。
万延元年(1860年)に清水家家臣・松井八十五郎の長女
である 松井つねと結婚。
翌年8月には府中六所宮にて、天然理心流剣術宗家四代目襲名披露の
野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぎ、その重責を担うこととなった。
また、文久二年(1862年)には、長女・たま(瓊子)が誕生した。
文久三年(1863年)、清河八郎の献策を容れ、江戸幕府は14代将軍・
徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募った。
斎藤一を除く試衛館の8人はこれに参加することを決め、2月8日、
浪士組一向と共に京都に向けて出発した。
中山道を進み、2月23日に京都に到着すると、壬生郷士の八木源之丞の邸
に宿泊し、世話になった。
新選組局長清河は朝廷に建白書を提出し浪士組の江戸帰還を提案した。
異議を唱えた近藤や水戸郷士の芹沢鴨ら24人は京に残留する。
京都守護職会津藩主・松平容保に嘆願書を提出し、京都守護職配下で
「壬生浪士組」と名乗り、活動を開始した。
結成当初の壬生浪士組は運営がスムーズに行かず、3月25日に
壬生浪士組結成メンバーの一人である殿内義雄は客死した(暗殺説あり)。
根岸友山の一派と粕谷新五郎 は脱退し、阿比留栄三郎は病死
(暗殺説あり)し、 家里次郎は切腹した。
これにより壬生浪士組は近藤派と芹沢派の二派閥体制となった。
長州藩を京都政局から排するために中川宮朝彦親王(尹宮)、会津藩、
薩摩藩主導の八月十八日の政変が起こると、壬生浪士組は
御花畑門の 警護担当となった。
その後、働きぶりが認められ、武家伝奏より「新選組(新撰組)」の
隊名を下賜された。
また、同年9月16日(一説に18日)、芹沢一派が暗殺されると、
近藤勇主導の 新体制が構築された。
元治元年(1864年)6月、新選組は熊本藩宮部鼎蔵の同志である
古高俊太郎を捕縛した。
古高の供述から中川宮邸放火計画を知った新選組は直ちに
探索を開始し、 池田屋に突入して宮部一派を壊滅させた。
この働きにより、新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜った。
禁門の変出動を経て、近藤は隊士募集のために帰郷する。
ここで伊東甲子太郎ら新隊士の補充に成功した。
慶応元年(1865年)、永井尚志の供として広島へ赴く。
そして慶応三年(1867年)、新選組は幕臣となり、近藤は
御目見得以上の格となる。
これにより近藤は幕府代表者の一員として各要人との交渉を行い、
そのなかには 土佐藩の参政である後藤象二郎等も挙げられる。
そのころ、伊東甲子太郎は御陵衛士として分離し、藤堂平助、
斎藤一(近藤派の間者)らがこれに加わった。
伊東は近藤を暗殺しようとたくらむが(伊東には暗殺しようなどという
気持ちはなかった という説もあり)、同年11月18日、近藤は伊東を酔わせ、
帰り際に大石鍬次郎等に暗殺させた。
その後、他の御陵衛士たちを誘い出して夜襲し、藤堂らを殺害した。
その報復として近藤は同年12月18日、伏見街道で御陵衛士の残党に
銃で撃たれて負傷する。
そのため、慶応四年1月3日、鳥羽・伏見の戦いでは隊を率いることができずに
大坂城で療養している。
近藤の治療は新選組の検診医でもあった幕府典医・松本良順が行った。
戊辰戦争 三条河原鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れた新選組は
幕府軍艦で江戸に戻る。
3月、幕府の命を受け、大久保剛と改名した近藤は甲陽鎮撫隊として
隊を再編し甲府へ 出陣したが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて
敗走し、その際、意見の対立から 永倉新八、原田左之助らが離別する。
その後、大久保大和と再度名を改め、旧幕府歩兵らを五兵衛新田
(現在の東京都足立区 綾瀬四丁目)で募集し、4月には下総国流山
(現在の千葉県流山市)に屯集するが、 新政府軍に包囲され、
越谷(現在の埼玉県越谷市)の政府軍本営に出頭する。
しかし、大久保が近藤と知る者が政府軍側におり、そのため総督府が
置かれた板橋宿 まで連行される。
近藤は大久保の名を貫き通したが、元隊士で御陵衛士の一人だった
加納鷲雄に 近藤と看破され、捕縛された。
その後、土佐藩と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じたが、
結局、4月25日、 平尾一里塚(現在の東京都北区滝野川)で斬首された。
斬首される直前、近藤は「楽しかったな。」と言ったという[要出典]。
35歳(満33歳没)。首は板橋と大坂の千日前、京都の三条河原で梟首された。
その後の首の行方は不明である。
墓所 法蔵寺の首塚近藤の遺体は東本願寺法主が受け取り埋葬したとされるが、
一説に同志により奪還され、愛知県岡崎市の法蔵寺に葬られたともいわれ、
同寺に近藤の首塚がある。また東京都三鷹市の龍源寺(先述の出身地、
現・調布市野水のすぐ近く)や処刑場の近隣であるJR板橋駅前にも旧同士
だった 永倉新八により建立された墓所がある。
福島県会津若松市の天寧寺には土方歳三が遺体の一部を葬ったとされる墓
があり、 山形県米沢市の高国寺にも近藤勇の従兄弟近藤金太郎が首を
ひそかに持ち帰り 埋葬したとされる墓がある。
毎年、近藤勇を弔う為に「近藤勇忌」が流山市や会津若松市等で
行われている。
東京にいる子孫は代々農家を続けており、今現在の末裔も都内で
農家を営んでいる。
また、子孫である宮川清蔵は天然理心流9代宗家となっている
(近藤勇は4代宗家)。
戒名は貫天院殿純義誠忠大居士。
なお、辞世の句は漢詩(七言律詩)で作られている。
孤軍援絶作囚俘
顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節
雎陽千古是吾儔
靡他今日復何言
取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣
只将一死報君恩
(読み下し文:孤軍たすけ絶えて俘囚となる。
顧みて君恩を思えば涙さらに流る。
一片の丹衷よく節に殉ず。
雎陽千古これ吾がともがしら。
他になびき今日また何をか言わん。
義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所。
快く受けん電光三尺の剣。
只まさに一死をもって君恩に報いん。)
上記辞世が刻まれた句碑が龍源寺境内の墓所にある。
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