2008年10月30日木曜日

山南 敬助


やまなみ けいすけ
さんなん けいすけ
天保4年(1833年)
元治2年2月23日
(1865年3月20日)は、
新選組総長(副長)。
陸奥国(後の陸前国)
仙台藩出身。
読みについては
「やまなみ」という読みが
あるが、本人の署名に
「三南」「三男」などがある
ため、さんなんの可能性の
ほうが高い。
また晩年は三南三郎を称していた。
文武両道の人で特に学識があり、温厚な人柄であったという。
「サンナンさん」と呼ばれ親しまれた。
出自
仙台藩を脱藩して、江戸に出たとされているが、仙台には山南もしくは三南
という苗字はないため、確かな事は不明。小野派一刀流の免許皆伝で、
後に北辰一刀流・千葉周作門人となる。
試衛館近藤勇の天然理心流剣術道場試衛館に他流試合を挑み、相対した
近藤に敗れる。
この時、近藤の腕、人柄に感服し近藤を慕うようになる。
以後、試衛館の門人同様に行動を共にする。
試衛館には後の新選組幹部となる土方歳三や沖田総司、永倉新八らが
集っていた。
文久元年(1860年)8月、府中六所宮で行われた近藤勇の天然理心流
四代目就任披露の野試合に赤軍として参加。
翌文久2年正月には、沖田総司と共に小野路に剣術教授に出張している。
新選組文久3年(1863年)2月、将軍警護と尊王攘夷を目的とする清河八郎
発案の浪士組に近藤等と参加、上洛し壬生浪士組の一員となる。
3月26日、隊内の覇権争いで殿内義雄を四条大橋で、近藤・芹沢鴨らととも
に暗殺した。
こうして近藤派と芹沢派の野合によるヘゲモニーとなった壬生浪士組は、
近藤、芹沢が局長となり、山南は近藤派として土方歳三とともに局長助
(副長)に就任する(芹沢派からは新見錦)。
尊王攘夷を目的に結成された浪士組だが、会津藩預かりとなり京の不逞
浪士取締りに専念。
文久3年7月頃、山南は土方と共に呉服商「岩城升屋」に押し入った不逞浪士
数名を激しい戦闘のに撃退。
8月18日の政変にも山南は参加し、2日後京に潜伏する長州系浪士を土方らと
斬っている。
文久3年の9月、かねてより反目していた芹沢鴨らの暗殺に参加。
浪士組は近藤派(試衛館派)によって統一され、組織再編で山南は総長に
就任し、局長近藤、副長土方の間に位置する立場となった。
しかしこの事件以降、後の脱走-切腹まで新選組の活動記録から山南の名は
消える。
元治元年6月の池田屋事件にも、参加していない。(病気説や屯所を守っていた
という説がある。)
元治元年(1864年)11月、伊東甲子太郎らが入隊。伊東は山南と同門の北辰
一刀流で、熱烈な尊王攘夷論者、学識も高かった。
伊東は山南よりも上位の参謀職に付き格別の待遇をうける。

元治2年(1865年)2月、山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残し、新選組を脱走。
新選組の隊規では脱走は死罪である。
近藤と土方は、沖田を追っ手として差し向け、近江国大津で捕捉され、屯所に
連れ戻された。(※脱走では無かったと言う説もある。)
山南の脱走原因は諸説ある。
西本願寺侍臣西村兼文によれば、山南を追い詰めたのは屯所移転問題だった
とされる。
壬生の屯所から西本願寺に移るというもので、隊士が増え手狭になったことも
あるが、西本願寺は勤王の色濃く、長州藩毛利家と関係が親密な寺であった
ため、土方は、一挙にその根を断とうと考えた。
その為、寺側が移転中止を願っても頑として聞き入れなかった。
勤王の志強い山南も強く反対したが、近藤、土方は全く取り合わなかった。
相手にされなかった事に山南は怒り、遂に新選組との決別を決意させたと言
われている。
脱走の背景に尊王攘夷を目的に結成されながら、実際やっていることは志士の
弾圧という新選組のありかたに疑問を感じていたとも言われる。
後に離脱する伊東と密約があったともいわれている。
平成10年に見つかった浪士文久報国記事(永倉新八 手記)より、元治元年
(1864年)6月26日の警備を病気の為に屯所に引き込んでいた根拠ならび禁門
の変について山南の事が一切書かれていない為、病に悩んでいた説もある。
試衛館以来の付き合いである幹部永倉新八や、伊東らに再度の脱走をすすめ
られるが、山南は死の覚悟を決めていた。
永倉の配慮によって、山南が馴染みにしていた島原の天神明里が死の間際の
山南の元に駆けつけ今生の別れを告げたという哀話が伝わっている
(その永倉の手記「新撰組顛末記」や「浪士文久報国記事」などには明里に
ついての記述はなく、子母沢寛の創作という可能性が高いとされている)
元治2年(1865年)2月23日、切腹死。
介錯は山南の希望により、山南が弟のように可愛いがった沖田総司。享年33。
その切腹を近藤が「浅野内匠頭でも、こうは見事にあい果てまい」と賞賛した
という。
山南敬助は新選組の中でも慕われており、あの鬼の副長で有名な土方歳三
でさえも山南敬助の切腹の際には、涙を流したといわれている。
墓は京都の光縁寺にある。
伊東甲子太郎は、山南の死をいたんで4首の和歌を読んだ。
春風に吹き誘われて山桜 散りてぞ人に惜しまれるかな
   吹く風にしぼまんよりも山桜
      散りてあとなき花ぞ勇まし
  伊東甲子太郎
山南は、心優しい性格で壬生界隈では女性や子供達から慕われていたという。
「親切者は山南、松原」という言葉が壬生に明治初期まで残っていた。
『新選組遺聞』によれば「芹沢などと違い、隊内の者にも、壬生界隈の人たち
にも評判が良かった」とされる。
新選組のスポンサー小島鹿之助は「武人にして文あり」と評している。
新選組に対する酷評で知られる西村兼文でさえ「少しく時理の弁(わきま)え
ある者」(「ちょっとは物事の筋道が解かる人」の意味。『壬生浪士始末記』)と
評価している。
小柄で色白な愛嬌のある顔をしていた 新選組が駐屯した家の子どもであった
八木為三郎によれば「丈はあまり高くなく、色白の愛嬌のある顔」であり、
「子どもが好きで、どこで逢ってもきっと何か声をかけた」
(『八木為三郎老人壬生話』)という。
8月18日の政変に出隊する時、近藤や土方は甲冑に身を包んでいるのに総長
である山南には甲冑が渡されず、怒ったが、松原忠司が間に入り山南をなだめた
らしい。
岩城升屋事件(いわきますやじけん) 元治元年1月、将軍家茂警護のため大阪
滞在中、高麗橋そばの呉服商「岩城升屋」(岩木とも)に不逞浪士数名が押し入
った際、土方・山南両名が駆けつけて激しい戦闘の末に撃退した。
この功により、山南は会津候より金8両を賜っている。
山南がこの事件で使っていた「播州住人赤心沖光作」銘の刀(2尺8寸5分=
約86.4cm)は、ひどく刃こぼれし切っ先から1尺1寸(約33.3cm)のところで折れた。
この刀の押し型(魚拓の様に、刀の形を紙に写し取ったもの)が土方の手で
小島鹿之助に送られ、現在も小島資料館にて見ることが出来る
(但し、展示品は模写)。
『維新史蹟図説』によればこの事件で山南は左腕を負傷したとされ、一説には
このときの傷が元で片腕が不自由となったために池田屋事件にも留守居に甘んじ
るなど、武士としての立場を失ったことと近藤や土方とのすれ違いとが相まって、
脱走の原因になったのではないかとも言われている。
しかし一方で、池田屋事件では長州浪士の屯所襲撃に備えて、残留組の最高
責任者として残っただけとする説もある。
なお岩城升屋事件においては、その発生時期を文久3年7月頃とする説や、駆け
つけた隊士が山南1人であったとする説もある。

2008年10月29日水曜日

清河 八郎






天保元年10月10日
(1830年11月24日)
文久3年4月13日
(1863年5月30日)
幕末(江戸時代)の志士で、
浪士組の幹部であった。

出羽国庄内藩領清川村
(現・山形県東田川郡庄内町)
の郷士の斉藤豪寿の子。
幼名元司。諱は正明。
本名は斉藤正明。


生涯
生涯天保14年(1843年)八郎は清川関所役人の畑田安右衛門に師事し勉学に
勤しむ。かなり優秀であったようである。
弘化3年(1846年)には後の天誅組総裁藤本鉄石と会い親交を深めた。
弘化4年(1847年)江戸に出て古学派の東条一堂に師事。
才を認められ東条塾塾頭を命ぜられたが、固辞。安積艮斎に転塾。
その傍ら、北辰一刀流の開祖千葉周作の玄武館で剣を磨き免許皆伝を得え、
江戸幕府の学問所昌平黌に学んだ。その後、清河塾開設。
(江戸市内で学問と剣術を一人で教える塾は清河塾だけであった)
安政2年(1855年)3月から9月にかけて、母親を連れて、清川村を出発。

善光寺、名古屋、伊勢、奈良、京都、近江、大阪、宮島、岩国、天橋立、鎌倉、
江戸、日光などをめぐる大旅行をする。
その記録「西遊草」は、幕末の旅行事情を知るうえでは貴重な資料である。
内容は各国の名士との出会いなどを中心に書かれているが、清河の性格
からか辛辣で手厳しい批評が多い。
万延元年(1860年)に起こった桜田門外の変に強い衝撃を受け、倒幕、尊王

攘夷の思想が強まる。
この事件を契機に、清河塾に憂国の士が集まりだす。
同年、八郎を盟主として虎尾の会結成。

発起人は山岡鉄太郎(鉄舟)他十五名。横浜外国人居留地を焼き討ちし、
尊王攘夷の精神を鼓舞し、倒幕の計画をたてたが、この密計が幕府の知る
ところとなる。
しかも文久元年には八郎に罵詈雑言を浴びせてきた者を斬り捨てたため、
幕府に追われる立場となっていた。

八郎はこのような事情から京都に潜伏したり、東西諸国を遊説してまわり
尊攘倒幕の内約をとりつけにまわった。
その後、松平春嶽(幕府政事総裁)に急務三策(1. 攘夷の断行、2. 大赦の

発令、3. 天下の英材の教育)を上書する。
尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用。浪士組が結成される(234名)。
八郎は上手く幕府を出し抜いた。
文久3年(1863年)2月23日、将軍徳川家茂上洛のさい、その前衛として八郎

は盟主として浪士組を率いて京都へ出発。


京都に到着した夜、八郎は浪士を壬生の新徳寺に集め本当の目的は将軍
警護でなく、尊王攘夷の先鋒にあると述べる。












これに反対したのが、近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らであった
(鵜殿鳩翁が浪士組隊士の殿内義雄・家里次郎の両名に、
京に残留することを希望する者の取りまとめを依頼し、根岸友山、芹沢鴨、近藤勇らが残留し八郎と袂を
分かつ、彼らは壬生浪士(壬生浪)となり、後に新選組へと発展してゆく。)。
二百名の手勢を得た八郎は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て幸運にも
受理された。

このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻す。
八郎は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と
対立していたため狙われていた。

文久3年4月13日幕府の刺客、佐々木只三郎、窪田泉太郎など6名によって
麻布一ノ橋で討たれ首を切られた。享年34。

『女士道』によると首は石坂周造がとりもどし、山岡英子(山岡鉄舟の妻)が
保管し遺族に渡したという。八郎死後、幕府は浪士組を新徴組と改名し
庄内藩預かりとした。




2008年10月28日火曜日

新見 錦


天保7年(1836年) -
文久3年9月13日(1863年10月25日)?)。

水戸藩出身。
新選組局長のち副長に降格。
号は錦山(きんざん)。

新選組の羽織を作るために大坂の平野屋五兵衛から金子を借りた時に、隊長として近藤、芹沢と同格で「親見錦」と署名した。
署名から新見錦の読みがしんみ にしきである可能性もある。


生涯

岡田助右衛門に剣を学び神道無念流免許皆伝を授かる。
文久3年(1863年)2月、清河八郎が建策により上洛する将軍徳川家茂
の警護の
ために組織された浪士組に加盟し、三番組小頭になる。

後に新選組を結成する水戸の芹沢鴨や江戸・試衛館(天然理心流)の近藤勇も
加盟している。
新見の前歴は詳らかでないが、幹部の小頭に任じられていたことから名が
知られた存在ではあったと考えられる。
同じ水戸出身で六番組小頭の芹沢鴨のかねてからの同志とされるが、芹沢
との具体的な関係は不明である。
また、剣術の師である岡田助右衛門も五番世話役として参加している。
新見の組下には井上源三郎、沖田林太郎(沖田総司の義兄)など5人の
多摩系の天然理心流門人が配属された(井上以外は新選組には不参加)。
8日に江戸を出立して23日に入京。
粕谷新五郎(水戸出身)とともに南部亀二郎邸に宿泊。芹沢は近藤とともに
八木源之丞邸に宿泊しており、八木家の子息だった八木為三郎の回顧に
よれば、新見と粕谷は芹沢のいる八木家に入り浸っていたという。
27日に清河が攘夷の真意を明かして江戸帰還を宣言すると、芹沢、近藤
とともに京都残留を表明して離脱。離脱組は芹沢、新見ら5人の水戸系浪士
と近藤、土方歳三、山南敬助、沖田総司ら8人の試衛館門人で、これに
殿内義雄、根岸友山、粕谷新五郎らが加わるがすぐに内部抗争が起きて
殿内、根岸、粕谷らは謀殺・脱退した。
必然的には浪士たちは芹沢、新見ら水戸派と近藤、土方ら試衛館派に大別
された。
浪士たちは京都守護職の会津藩主松平容保に嘆願書を提出して、会津藩
御預かりとなり壬生浪士組を名乗る。
新見は結成当初の編成で芹沢、近藤と並んで局長となった。
4月に大坂の商人から100両借りた(押し借り)したときの添書きでは新見、
芹沢、近藤の名前が並んでいる。
隊士が増えて6月に編成変えが行われた時には、新見は局長から副長に
降格されている。
新見は芹沢と行動を共にする腹心と言われるが、芹沢が引き起こした大坂
力士乱闘事件や大和屋焼き討ち事件には参加しておらず、同じ水戸出身の
最高幹部だが芹沢とどの程度の親密な関係だったか、また壬生浪士組幹部
としての行動の実態はよく分らない。
芹沢や近藤のことをよく覚えていた八木為三郎も新見についてはまるきり
覚えていない、いつの間にかいなくなったと述べている。
そのため影の薄い男だったと言われることもあるが、隊務を怠っていたという
記録があり、ほとんど屯所の八木家にいなくて為三郎と顔を合わせることも
なかったのだろう。
八月十八日の政変では芹沢、近藤らと出動して殿を務めている。
この出動を機に壬生浪士組は新選組(新撰組)と改称した。
新選組幹部の永倉新八が書き残した『浪士文久報国記事』によると新見は
乱暴が甚だしく法令を犯して芹沢、近藤の説得にも耳を貸さなかったという。
子母澤寛の『新選組始末記』によっても新見は遊蕩に耽って隊務を怠り、
隊費と称して民家から強請り(ねだり)を繰り返していたという。
9月13日に新見は切腹させられた。
『新選組始末記』によると悪行の数々を握られて切腹せねば法度に照らして
斬首すると詰め寄られ、遊蕩先の祇園新地の料亭山緒でついに切腹させら
れたという。
『浪士文久報国記事』によれば一同相談のうえ切腹と決まったが、またも
三条木屋町の旅宿で水戸浪人吉成常郎に乱暴を働いたため梅津某の介錯
で切腹させられたことになっており、真相はよく分からない。
日付も『浪士文久報国記事』では8月14,15日となっており、判然としない。
明治になって倒幕派尊王攘夷志士を祀るためつくられた霊山護国神社に
倒幕派の敵だったはずの新選組幹部である新見が祀られていることから、
切腹は単純な乱暴狼藉ではなく水戸や長州、土佐などの尊王攘夷派との
親密な関係があったからではないかという説もある。
新見の死の僅か3日後の9月16日に芹沢と水戸派の平山五郎が試衛館派に
襲撃・暗殺されており、新選組の水戸派は壊滅した。
田中伊織新選組隊士・田中伊織と新見錦を同一人物とする説もあるが、
定かではない。
近年では水戸浪士の新家粂太郎が新見錦であるという説も出ている。
田中伊織の墓は壬生寺にある。

2008年10月21日火曜日

芹沢鴨



文政10年(1827年)文久3年9月16日(1863年10月28日))9月18日(10月30日))
幕末の水戸藩浪士、新選組(壬生浪士)の初代筆頭局長芹沢鴨の生誕日。
前名は下村嗣司。諱は光幹。
家系は常陸平氏の平成幹の流れを汲むという平姓の芹沢氏。
父は芹沢外記貞幹。
生涯
出自中世に興起した常陸国芹沢村(現茨城県行方市玉造町芹沢)の豪族、
芹沢氏から発祥し、関ヶ原の戦功により幕臣となり、のちに水戸藩上席郷士
(士分)となった芹沢家の当主貞幹の三男として生まれた。
幼名は玄太。のちに松井村(現茨城県北茨城市中郷松井)の神官である
下村祐斎の婿養子となり、下村嗣司と称した(継司、嗣次とも)。
ただし、出自、出生年には諸説ある。
たとえば島田魁の『英名録』には「芹沢又右衛門子」とあり、分家の出身
ともいわれるが、水戸藩士の系譜を網羅する『水府系纂』に記載
される芹沢又右衛門家の記述に該当する文言は見当たらない。
なお、芹沢又右衛門家も祖先は芹沢外記家と同じ中世豪族の芹沢氏
である。 武術は神道無念流剣術戸賀崎熊太郎に剣を学び、免許皆伝
を受け師範代を務めた。
天狗党嗣司は尊王攘夷思想を貫徹するため、松井村を離れ、万延元年
(1860年暮れ、天狗党の前身である玉造組に参加した。
玉造村(現茨城県行方市玉造)を拠点として横浜で攘夷を決行するため
石岡(現石岡市)、玉造、潮来(現潮来市)近辺の豪商、豪農を回り、
資金集めに奔走した。
このとき、玉造組では「進思尽忠」「無二無三大和魂」と記載された幟を
掲げていた。嗣司はこのころから後世トレードマークとされた鉄扇を使用
していた記録が残る。
しかし、文久元年(1861年)2月、水戸藩領だけでなく天領でも資金集め
をしたことや天狗党を詐称して攘夷を口実とする恐喝が横行したことなど
から、幕府から水戸藩に攘夷論者の活動の抑圧が指示され、水戸藩の
方針は転換した。
天狗党に近い藩首脳が更迭され、代わって反対派の諸生党が台頭すると、
玉造組は即時に弾圧された。4月には嗣司も佐原方面での献金強要の
罪で捕縛され入獄した(「鈴木大日記」)。
処刑を待つ身だったが、文久2年(1862年)、住谷寅之助らによる朝廷
工作が功を奏し、再度天狗党が藩の政権を奪取したことから、12月、
安政の大獄に関わった政治犯の釈放を目的に大赦令が出され、出獄
することを許された。
この時、名を芹沢鴨に改めたという。
壬生浪士組筆頭局長文久3年(1863年)2月5日、清河八郎が発案し
江戸で結成された浪士組に同郷で芹沢家の家臣筋でもある平間重助
を伴い参加し、六番組小頭に任命された。
浪士組には、のちに江戸の剣術道場試衛館の近藤勇、土方歳三、
沖田総司、山南敬助らも加わって、京都まで行動をともにする。
23日、京都に到着。芹沢は近藤一派とともに壬生の郷士八木源之丞
の屋敷に分宿した。
そのころ将軍の警固のため上洛した浪士組を、真の尊王攘夷の先鋒
とするため、創設者である清河八郎は、朝廷に上奏文を提出して、
浪士組を朝廷の直属にすることに成功した。
29日、新徳寺に同志を集め攘夷の決行のため江戸帰還を宣言すると、
芹沢と近藤はこれに反対し、京都残留を申し出て脱退。
この時に残留を決めたのが芹沢の同志5人と近藤の同志8人の
合計13人だった。これに殿内義雄や根岸友山らも合流する。
3月10日、芹沢、近藤ら17人(24人ともいう)の連名で会津藩に嘆願書
を提出。会津藩は彼らを「御預かり」とすることを決める。芹沢らは
八木家を屯所として(後に前川家と南部家にも寄宿)このとき
「壬生浪士組」を名乗る。
その際、内部抗争が起き、26日に殿内が暗殺され、根岸も同志ととも
に離脱すると、壬生浪士組は芹沢派と近藤派が牛耳ることになった。
のちに芹沢、近藤、新見が局長となり、そのうちで芹沢が筆頭となった。
ただ、預かりとはなっていたが、当初は給金の支給がなかったため、
4月になって芹沢、近藤らは大坂に下って商家から資金の提供を受けた。
しかし、このような恐喝まがいの資金集めは会津藩の体面に関わることから、
のちに藩より手当が支給された。
6月3日、芹沢、近藤ら10人が「不逞浪士」取り締まりのため大坂へ下った。
途中、すれ違った力士が道を譲らなかったため、芹沢らは力士たちに
暴行を加えた。その行為に怒った力士の仲間が駆けつけ乱闘となり
力士側に死傷者が出た。
相撲部屋(小野川部屋)の年寄が詫びを入れてことは治まったが、
大坂町奉行所与力内山彦次郎がこれを問題にして近藤を怒らせ、のちに
新選組により暗殺されている
(内山を暗殺した者については異説もある)。
同月、水口藩の公用方が壬生浪士組は乱暴であると苦情を言ったことが
会津藩を通して芹沢に知られ、激怒した芹沢は永倉新八、井上源三郎
らを藩邸に派遣し、担当者を脅迫して謝罪させ、詫び証文を取った。
詫び証文は担当者の独断で書かれたものであったため、ことの露見を
恐れた公用方は詫び証文を取り返そうと人を介して芹沢を説得し、芹沢は
詫び証文を返すこととなり、島原角屋で宴会が開かれた。
しかし酒乱の芹沢は大暴れをして店主の角屋徳右衛門に7日間の営業停止
を一方的に申しつけている(角屋での暴挙)。
同年8月18日、八月十八日の政変に際して御所の警備のために近藤、新見
とともに隊士を率いて出動するが、御門を固めていた会津藩士たちは壬生
浪士組を知らなかったため槍を構えて通そうとしなかった。
「通せ」「通さぬ」と双方が怒鳴りあう中、芹沢が哄笑しながら進み出て来た。
会津藩兵が槍を突きつけると、芹沢は鉄扇でその槍先を悠々と煽いで笑う。
会津藩の軍奉行が駆けつけて壬生浪士組を通してやり、芹沢は悠然と門を
通った。
人々は芹沢の剛胆さに驚いたという。(『新選組遺聞』)
この出動を機に会津藩は壬生浪士組に新選組の隊名を与えた。
暗殺
文久3年9月、芹沢が懸想していた吉田屋の芸妓小寅が肌を許さなかったため、
立腹した芹沢が吉田屋に乗り込み、店を破壊すると主人を脅して、小寅と付き
添いの芸妓お鹿を呼びつけ罰として2人を断髪させる乱暴を行っている
(「浪士文久報国記事」)。
13日、近藤らは芹沢派の新見錦(この時は副長に降格)に乱暴狼藉の罪を
問い詰めて切腹させた(「浪士文久報国記事」)。
14日、吉田屋での事件が問題となり、朝廷から芹沢の逮捕命令が出たことから、
会津藩は近藤、土方、山南らに芹沢の処置を密命する。
乱暴狼藉は表向きの理由で、水戸学を学び、天狗党の強烈な尊王攘夷思想の
流れをくむ芹沢を危険視したという説もある。
16日、(「川瀬家文書」~『新選組水戸派読本掲載』による。
『新選組遺聞』などでは18日)新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を
開いた。
芹沢は平山五郎、平間重助、土方歳三らと早めに角屋を出て壬生の八木家
へ戻り、八木家で再度宴会を催した。
その席に芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓桔梗屋吉栄、平間の
馴染みの輪違屋糸里が待っており、すっかり泥酔した芹沢たちは宴席が終る
と女たちと同衾して寝た。
大雨が降る深夜、突然、数人の男たちが芹沢の寝ている部屋に押し入り、
同室で寝ていた平山を殺害し、芹沢に斬りつけた。
驚いた芹沢は飛び起きて刀を取ろうとするが叶わず、真っ裸のまま八木家
の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、文机に転び、そこを刺客たちがよって
たかってずたずたに斬りつけ、芹沢を殺すと刺客たちは立ち去った。
平山の死体は胴体と首が離れており、芹沢と同衾していたお梅も首を切られ
惨殺された。
別室にいた平間は逃亡。吉栄と糸里も難を逃れ姿を消したという。
『新選組遺聞』では、八木源之丞の妻まさが土方歳三が夜中にしきりに
様子をうかがっているのを目撃しており、現場には沖田総司と原田左之助は
確かにおり、山南敬助もいたのではないかと記している。
永倉の「浪士文久報国記事」によると暗殺は土方、沖田、藤堂平助、
御倉伊勢武らが実行したとある。
西村兼文(新選組が屯所を置いた西本願寺の寺侍)の『新撰組始末記』
では実行者は土方、沖田、山南、原田になっている。
18日説は『新選組始末記』『新選組遺聞』が採るものであるが、18日夜
には降雨がなく、降雨があったのは16日であるとして、16日説を推す意見
もあり、いまだ定説はない。
事件は長州藩の仕業とされ、18日(18日暗殺説によれば20日)に芹沢と
平山の葬儀が神式に則り盛大に執り行われた。
事件の一連の経緯を20日に近藤は郷里多摩の佐藤彦五郎に手紙を送
っている。 芹沢の墓所は京都市中京区の壬生寺にある。
人物
芹沢の人となりについては、子母澤寛の“新選組三部作
”(『新選組始末記』『新選組遺聞』『新選組物語』。いずれも中央公論新社
から文庫版が出ている)に詳しいが、いずれもかなりの創作が入っていると
され史料的な正確さには非常に問題があることに留意する必要がある。
芹沢は背が高くでっぷり太っており、色白で目は小さかった。
豪傑肌の一廉の人物で、常に「盡忠報國の士、芹澤鴨」と刻まれた鉄扇
を手にしていた。
酒が好きで、昼間から飲んでおり酔ってないことはなかった。
小説やテレビドラマでは手のつけられない凶暴な悪漢のように描かれる
ことが多いが、会津藩主松平容保へ嘆願に行く時に八木家から紋付を
借りることになり、全員同じ家紋になってしまうと八木源之丞が心配すると
(公式の場では、かなり滑稽)、芹沢はまったく意に介せず笑っていたり、
八木家から借りた火鉢をこっそり返しに来て、火鉢に刀傷があったので
問いただしたら(隊士たちは酔って
八木家の家財を手当たり次第に試し切りの材料にしていた)、「俺だ、俺だ」と頭を
かいて逃げてしまうなど気さくな一面もあった。
また、八木家の幼い娘が亡くなったときには、芹沢は近藤と帳場に立って進んで
葬儀を手伝っており、暇つぶしに面白い絵を子供たちに書いてやるなど好かれて
いたという。
尊王攘夷の念が強く、北野天満宮に「雪霜に 色よく花の魁て 散りても後に 匂う
梅が香」という句を記した額を献じた。 新選組にまつわる物語に言われる芹沢が
起こしたとされる「本庄かがり火事件」というのがある。浪士組時代に、京都へ向
けて出発した一行が本庄宿で宿泊する際、宿割の近藤勇が芹沢の宿を取り忘れ
たことに端を発し、大篝火を炊くという話だが、これは近藤の宿割の辞令が14日付
ということが判明し、創作の可能性が指摘されている。
(分部家文書~『新選組読本隊士外伝所収』) 芹沢の生家は江戸期以降、代々
医業を続けており、現在の子孫も茨城県石岡市で診療所を開いている。
現在も家伝薬「筋渡し」が処方されている。

2008年10月20日月曜日

近藤勇

生涯

試衛館農民宮川久次郎の三男と
して生まれる。
幼名は勝五郎。宮川夫妻には
勝五郎の他に、 長女・リエ
(近藤の生まれる2年前に死去)、
長男・音五郎、
次男・粂蔵(粂次郎)がいた。
出身地武蔵国多摩郡上石原村
現在の東京都調布市野水
(北西部に位置)に相当する。
戦時中の調布飛行場延長工事
より生家が取り壊されている。

嘉永元年(1849年)11月11日、
近藤は天然理心流剣術道場
試衛館に 入門する。

盗人を退治するなどして近藤周助(近藤周斎)に認められ、周助の
実家である島崎家に養子に入り、島崎勝太と名乗る。
のちに正式に近藤家と養子縁組し、島崎勇と名乗ったのちに、
近藤勇を名乗った。

万延元年(1860年)に清水家家臣・松井八十五郎の長女
である 松井つねと結婚。

翌年8月には府中六所宮にて、天然理心流剣術宗家四代目襲名披露の
野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぎ、その重責を担うこととなった。
また、文久二年(1862年)には、長女・たま(瓊子)が誕生した。

文久三年(1863年)、清河八郎の献策を容れ、江戸幕府は14代将軍・
徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募った。
斎藤一を除く試衛館の8人はこれに参加することを決め、2月8日、
浪士組一向と共に京都に向けて出発した。
中山道を進み、2月23日に京都に到着すると、壬生郷士の八木源之丞の邸
に宿泊し、世話になった。

新選組局長清河は朝廷に建白書を提出し浪士組の江戸帰還を提案した。
異議を唱えた近藤や水戸郷士の芹沢鴨ら24人は京に残留する。
京都守護職会津藩主・松平容保に嘆願書を提出し、京都守護職配下で
「壬生浪士組」と名乗り、活動を開始した。

結成当初の壬生浪士組は運営がスムーズに行かず、3月25日に
壬生浪士組結成メンバーの一人である殿内義雄は客死した(暗殺説あり)。
根岸友山の一派と粕谷新五郎 は脱退し、阿比留栄三郎は病死
(暗殺説あり)し、 家里次郎は切腹した。
これにより壬生浪士組は近藤派と芹沢派の二派閥体制となった。

長州藩を京都政局から排するために中川宮朝彦親王(尹宮)、会津藩、
薩摩藩主導の八月十八日の政変が起こると、壬生浪士組は
御花畑門の 警護担当となった。
その後、働きぶりが認められ、武家伝奏より「新選組(新撰組)」の
隊名を下賜された。
また、同年9月16日(一説に18日)、芹沢一派が暗殺されると、
近藤勇主導の 新体制が構築された。

元治元年(1864年)6月、新選組は熊本藩宮部鼎蔵の同志である
古高俊太郎を捕縛した。
古高の供述から中川宮邸放火計画を知った新選組は直ちに
探索を開始し、 池田屋に突入して宮部一派を壊滅させた。
この働きにより、新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜った。

禁門の変出動を経て、近藤は隊士募集のために帰郷する。
ここで伊東甲子太郎ら新隊士の補充に成功した。

慶応元年(1865年)、永井尚志の供として広島へ赴く。
そして慶応三年(1867年)、新選組は幕臣となり、近藤は
御目見得以上の格となる。
これにより近藤は幕府代表者の一員として各要人との交渉を行い、
そのなかには 土佐藩の参政である後藤象二郎等も挙げられる。

そのころ、伊東甲子太郎は御陵衛士として分離し、藤堂平助、
斎藤一(近藤派の間者)らがこれに加わった。
伊東は近藤を暗殺しようとたくらむが(伊東には暗殺しようなどという
気持ちはなかった という説もあり)、同年11月18日、近藤は伊東を酔わせ、
帰り際に大石鍬次郎等に暗殺させた。
その後、他の御陵衛士たちを誘い出して夜襲し、藤堂らを殺害した。
その報復として近藤は同年12月18日、伏見街道で御陵衛士の残党に
銃で撃たれて負傷する。

そのため、慶応四年1月3日、鳥羽・伏見の戦いでは隊を率いることができずに
大坂城で療養している。
近藤の治療は新選組の検診医でもあった幕府典医・松本良順が行った。

戊辰戦争 三条河原鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れた新選組は
幕府軍艦で江戸に戻る。
3月、幕府の命を受け、大久保剛と改名した近藤は甲陽鎮撫隊として
隊を再編し甲府へ 出陣したが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて
敗走し、その際、意見の対立から 永倉新八、原田左之助らが離別する。
その後、大久保大和と再度名を改め、旧幕府歩兵らを五兵衛新田
(現在の東京都足立区 綾瀬四丁目)で募集し、4月には下総国流山
(現在の千葉県流山市)に屯集するが、 新政府軍に包囲され、
越谷(現在の埼玉県越谷市)の政府軍本営に出頭する。

しかし、大久保が近藤と知る者が政府軍側におり、そのため総督府が
置かれた板橋宿 まで連行される。
近藤は大久保の名を貫き通したが、元隊士で御陵衛士の一人だった
加納鷲雄に 近藤と看破され、捕縛された。

その後、土佐藩と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じたが、
結局、4月25日、 平尾一里塚(現在の東京都北区滝野川)で斬首された。
斬首される直前、近藤は「楽しかったな。」と言ったという[要出典]。
35歳(満33歳没)。首は板橋と大坂の千日前、京都の三条河原で梟首された。
その後の首の行方は不明である。

墓所 法蔵寺の首塚近藤の遺体は東本願寺法主が受け取り埋葬したとされるが、
一説に同志により奪還され、愛知県岡崎市の法蔵寺に葬られたともいわれ、
同寺に近藤の首塚がある。また東京都三鷹市の龍源寺(先述の出身地、
現・調布市野水のすぐ近く)や処刑場の近隣であるJR板橋駅前にも旧同士
だった 永倉新八により建立された墓所がある。
福島県会津若松市の天寧寺には土方歳三が遺体の一部を葬ったとされる墓
があり、 山形県米沢市の高国寺にも近藤勇の従兄弟近藤金太郎が首を
ひそかに持ち帰り 埋葬したとされる墓がある。
毎年、近藤勇を弔う為に「近藤勇忌」が流山市や会津若松市等で
行われている。

東京にいる子孫は代々農家を続けており、今現在の末裔も都内で
農家を営んでいる。
また、子孫である宮川清蔵は天然理心流9代宗家となっている
(近藤勇は4代宗家)。
戒名は貫天院殿純義誠忠大居士。

なお、辞世の句は漢詩(七言律詩)で作られている。
孤軍援絶作囚俘 

顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節
雎陽千古是吾儔
靡他今日復何言
取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣
只将一死報君恩
(読み下し文:孤軍たすけ絶えて俘囚となる。
顧みて君恩を思えば涙さらに流る。
一片の丹衷よく節に殉ず。
雎陽千古これ吾がともがしら。
他になびき今日また何をか言わん。
義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所。
快く受けん電光三尺の剣。
只まさに一死をもって君恩に報いん。)
上記辞世が刻まれた句碑が龍源寺境内の墓所にある。



2008年10月19日日曜日

構成員


新選組の隊名を用いる以前(壬生浪士組)の時期を含む。

歴代局長 芹沢鴨(初代筆頭局長) 新見錦 近藤勇 土方歳三

会津新選組隊長 山口二郎

箱館新選組隊長 大野右仲 相馬主計

歴代副長 新見錦 山南敬助 土方歳三 安富才助

総長 山南敬助

参謀 伊東甲子太郎 武田観柳斎

組長・組頭 一番隊組長:沖田総司 二番隊組長:永倉新八
        三番隊組長:斎藤一 四番隊組長:松原忠司
        五番隊組長:武田観柳斎 六番隊組長:井上源三郎
        七番隊組長:谷三十郎 八番隊組長:藤堂平助
        九番隊組長:鈴木三樹三郎
        十番隊組長:原田左之助 ~1864年編成時組頭

   二番隊組頭:伊東甲子太郎 五番隊組頭:尾形俊太郎

諸士取調役兼監察方/浪士調役  
山崎蒸 島田魁 川島勝司 林信太郎 浅野薫(藤太郎)篠原泰之進 新井忠雄
服部武雄 芦屋昇 吉村貫一郎 尾形俊太郎 大石鍬次郎 安富才助
岸島芳太郎 安藤勇次郎 茨木司 村上清 谷周平(近藤周平) 川村隼人
近藤隼雄

勘定方  河合耆三郎 尾関弥四郎

会計方  酒井兵庫 岸島芳太郎 中村玄道 安富才助 神崎一二三
      青柳牧太夫 矢田賢之助 大谷勇雄

伍長   奥沢栄助 島田魁 川島勝司 林信太郎 葛山武八郎
      前野五郎  阿部十郎 山武八郎 伊東鉄五郎 沼尻小文吾
      近藤芳助 粂部正親 加納鷲雄 中西昇 小原幸造
      富山弥兵衛 中村小三郎 池田小太郎 橋本皆助 茨木司
      尾関政一郎 志村武蔵

初期副長助勤  平間重助 野口健司 安藤早太郎 平山五郎 佐伯又三郎

国事探偵方  御倉伊勢武 荒木田左馬之助 楠小十郎 松永主計
         松井竜三郎 越後三郎

文武師範

撃剣師範   沖田総司 池田小三郎 田中寅蔵 新井忠雄 斎藤一

柔術師範   篠原泰之進 柳田三二郎 松原忠司

槍術師範   谷三十郎 谷万太郎

馬術師範  安富才助

砲術師範   清原清 阿部十郎

文学師範  武田観柳斎 斯波雄蔵 尾形俊太郎 毛内有之助

平隊士/同志下記以外の隊士はCategory:新選組隊士を参照。

蟻通七五三之進 佐々木蔵之助 馬詰柳太郎 馬詰信十郎 鄭智陽 濱口鬼一
中村金吾 土方対馬 森六郎 山野八十八 蟻通勘吾 宿院良蔵 馬越大太郎
馬越三郎 松崎静馬 篠塚峯蔵 藤本彦之助 伊藤与八郎 柳田三二郎 上田金吾
和田隼人 中村久馬 菅野六郎 三品仲治 伊木八郎 木内峰太 松本喜次郎
竹内元太郎(石川武雄) 新田革左衛門 松山幾之助 塚本善之助 室宅之助
和田重郎 牧野源七郎 小川一作 佐野七五三之助 中西昇 柴田彦三郎
木下弥三郎 木下巌 沼尻小文吾 上坂甲太郎 宮川数馬 水口市松 金子次郎作
三浦啓之助 輪堂貞造 池田七三郎 富川十郎 中村五郎中島登 加藤羆
加藤民弥 施山多喜人 田村銀之助 三好胖 菊池央 桜井数馬 松本捨助
井上泰助 大谷良輔 漢一郎 市村辰之助 鷲崎連 高梁雄之進 加賀爪勝之進
広瀬時宏 伊藤源助 木村広太 柏尾一郎 日下部遠江 日下部四郎
岩崎一郎(南一郎) 上田馬之助

美男五人衆  山野八十八 佐々木愛次郎 馬越三郎 馬詰柳太郎 楠小十郎

自称新選組隊士・関係者など  
   大石造酒蔵 結城無二三 奥田松五郎 山浦鉄四郎 永田克忠

2008年10月18日土曜日

組織


新選組は局長を頂点に副長が補佐し、以下に副長助勤・監察方(諜報)・
勘定方(会計)などを配置した。
副長助勤は組長として平隊士を統率した。
各組は一番から十番まであり、各組の人員は十人前後。
また、組長の下に伍長を置いた。
なお、新選組の組織編制は、職務の複数制を原則とする江戸時代の

各組織と違い一人制であり洋式軍制などの影響が指摘されている。

隊士達は日常的には武術の稽古や京都市内の見回りや潜伏している

浪士の探索などを行った。
剣術集団である新選組は、中心となる近藤ら試衛館の天然理心流に

加えて神道無念流、北辰一刀流などさまざまな剣術流派に加え、槍術
や柔術などを学んだ隊士もおり、実戦本意の集団戦法の集団であった。

結成当時には財政難であったと推測されるが、京都守護職配下時代は、

隊の運営資金を会津藩からの御用金で賄っていた。
また、一部は豪商などから提出させた。
その後、幕府配下になると、各隊士は幕府から給料を得た。
諸々の事件への出動により報償金が下されることもあった。

2008年10月17日金曜日

治安維持,装備,隊旗


後述する数々の創作物の影響もあり、幕末、京都の
治安維持の主力を担っていたのは新選組であるとの
認識も一般には強いが、実際は重要な御所近辺は
会津直轄隊の精鋭2000人、その周りは幕臣で構成
される見廻組500人が固めていた。
新選組はというと200人で伏見(当時は京都とは

別の町であった)などを担当していた。

もっとも京都見廻組などが律儀に管轄を守っていたのに

対し、新撰組は浪士の逃亡などを理由に管轄破りをする
ことも少なくなかったといわれる。


装備

羽織
袖口に山形の模様(ダンダラ模様)を白く染め抜いた

浅葱色(薄い水色)の羽織を着用していたとされ、映画など
では隊士はほとんどこの姿で表される。

羽織のダンダラは忠臣蔵の赤穂浪士が吉良邸に討ち入り
するときに着ていた羽織の柄で、浅葱色は武士が切腹の
時に着る切腹裃の色だと伝えられているが、羽織は実際
には最初の1年ほどで廃止されたらしく、池田屋事件の時
に着用していたとする証言が最後の記録である。

隊旗
作ったのは大文字屋呉服店(現在の大丸)。

一説では、大文字屋では無く「呉服問屋・菱屋」と言う
話もある。
また、誠の文字を染め抜いた隊旗は高島屋で作ったと

言われている。


赤地に白字で「誠」を染め抜き、隊服と同じようにダンダラ

が入っていたとする隊旗が一般的。
「誠」という字が旗が揺れたときに、近藤の実家「試衛館」

の「試」に見えるからという理由も隠されているらしい。
近藤派の存在を大きくしたかった土方の野望だとも言われる。

他にも隊旗があり全部で6種類あるとされている。
また、その隊旗が現れたとき、敵は恐怖で凍りついたと言われる。
この旗は現在の高島屋にあたる古着・木綿商によって特注で

製作されたものである。

2008年10月16日木曜日

実像

局中法度・内部粛清
局中法度(局中法度書)は「軍中法度」と並び新選組の規律維持の
ために定められたとされている。
成立は会津藩預となった浪士組時代に近藤ら試衛館派から芹沢ら
水戸派に提示されたと考えられている。

法として機能し始めたのは「新選組」と名を改め近藤・土方を中心
とする組織が整ってからで、伊東甲子太郎ら一派の粛清の際にも
適用されたといわれる。
第一条「士道ニ背キ間敷事」など抽象的な内容で、解釈は局長や
副長の一存に委ねられるものであった。
鳥羽伏見の戦い以前に、新選組隊内において粛清された隊士は
初代局長芹沢鴨や新見錦らを含めて41名である。

子母沢寛の著書『新撰組始末記』で紹介されて以来、有名となり、
以下の5ヶ条として知られるが、同時代史料にはこれを全て記録
した物は現在までのところ発見されていない。
しかし、明治になってから永倉新八が残した回想録には、法度
「禁令」という物があり ここには「私ノ闘争ヲ不許」を欠く4ヵ条
が示されている。
そのため、局中法度とは、この禁令に、別に定められていた
「軍中法度」を混ぜて子母沢が創作したものと推測されている。
また、天然理心流入門の際に誓約させられる神文帳との類似性も
指摘されている。

一、士道ニ背キ間敷事
一、局ヲ脱スルヲ不許
一、勝手ニ金策致不可
一、勝手ニ訴訟取扱不可
一、私ノ闘争ヲ不許
右条々相背候者切腹申付ベク候也

2008年10月14日火曜日

解散

慶応3年11月に徳川慶喜が大政奉還を行った。
旧幕府軍と共に鳥羽・伏見の戦いに参戦するも、新政府軍に敗北。
その後、榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へと移動した。
新選組は幕府から、新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を

与えられ甲陽鎮撫隊へと名を改め出撃するも敗戦。

甲州勝沼の戦いの後、江戸に戻ったが、方針の相違から永倉新八、
原田左之助らは分離して靖兵隊を結成した。近藤勇、土方歳三らは
再起をかけ、流山へ移動するも、近藤勇が新政府軍に捕われ処刑
され、沖田総司も持病であった肺結核の悪化により江戸にて死亡した。

新選組は宇都宮城の戦い、会津戦争などに参戦するが、会津では
斎藤一等が離隊する。
その後蝦夷共和国の成立を目指す榎本武揚らに合流し、二股口の戦い
等で活躍する。

新政府軍が箱館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた
新選組を助けようと土方歳三ら数名が助けに向かうが土方歳三が銃弾
に当たり死亡し、食料や水も尽きてきたので新選組は降伏した。
旧幕府軍は箱館の五稜郭において新政府軍に降伏した。

2008年10月13日月曜日

発展



文久3年9月、近藤・土方ら試衛館派は、芹沢ら水戸派を
粛清して 隊を掌握し、 近藤を頂点とする組織を整備する。

元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では尊王攘夷派
の蜂起 の計画を未然 に防ぎ、また、禁門の変でも戦った。

池田屋・禁門の変の働きで朝廷・幕府・会津藩より感状と
200両余 りの褒賞金を 下賜されると、元治元年9月に
第二次の隊士募集を 行い、更に近藤が江戸へ 帰郷した
際に伊東甲子太郎らの一派を 入隊させる。

新選組は200人を超す集団へと成長し、隊士を収容する
ために 壬生屯所から 西本願寺(京都市下京区)へ本拠
を移転する。

慶応3年(1867年)夏頃には幕臣 に取り立てられる。

慶応3年3月、伊東らの一派は思想の違いなどから御陵
衛士を
拝命して隊から 分派するが、同年11月、新選組
によって粛清
される。


2008年10月12日日曜日

結成

文久2年(1862年)、江戸幕府は将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護
の名目で浪士を募集した。庄内藩の郷士・清河八郎の建策を幕府が受け
入れてのものだった。

翌年文久3年(1863年)2月27日、集まった200名余りの浪士達は将軍上洛
に先がけ、浪士組として一団を成し、中山道を西上する。浪士取締役には、
松平主税之介、鵜殿鳩翁、窪田鎮克、山岡鉄舟、中条金之助、
佐々木只三郎らが任じられた。

京に到着後、清河が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしよう
とする画策が露見する。
浪士取締役の協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸
に戻ることとなった。

これに対し近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする
水戸派は、あくまでも将軍警護の為の京都残留を主張した。

鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄と家里次郎に残留者を募るよう指示。
これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、根岸友山一派などが京の壬生村
に残ったが、根岸派は直後に脱退、殿内・家里は排斥され、同年3月、新選組
の前身である「壬生浪士組」(「精忠浪士組」とも)が結成される。
その目的は公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することであった。

壬生村の八木邸や前川邸などを屯所とし、第一次の隊士募集を行う。
その結果36人余の集団となった壬生浪士組は、京都守護職・松平容保より、
主に尊攘激派(勤王倒幕)浪士達による不逞行為の取り締まりと市中警護を
任された。

同年8月に起きた八月十八日の政変に出動し、壬生浪士組はその働きを
評価される。
そして、新たな隊名を拝命する。ここに「新選組」が誕生した。
なお、隊名は武家伝奏(当時は野宮定功と飛鳥井雅典)から賜ったという説と、
会津藩主・松平容保から賜ったという二つの説がある。

2008年10月11日土曜日

新撰組 序章

幕末、会津藩主で京都守護職の松平容保の配下に置かれた、
会津藩の治安部隊。
会津藩には武士身分で構成される正規治安部隊、京都見廻組

(組長:佐々木只三郎)があり、 農民・商人身分で構成される
新撰組(組長:近藤勇)は、会津藩の京都における非正規治安部隊
である(後年は近藤らは幕臣になり正式な治安部隊となる)。
新選組はいわば“佐幕派の人斬り集団”であり、池田屋事件などで

京都に潜伏する 過激派尊王攘夷論者や不逞浪士の取り締まりに
あたった(本当は捕縛することが目的なのだが、 逃げようとしたり、
斬りかかって来る不逞浪士があまりにも多かったため斬殺した)。

その一方で、近藤らは新選組内部で凄惨な権力闘争を行い、敵対勢力を
容赦なく殺害した。
内規に反した等として粛清された者は相当数にのぼり、一説には勤皇志士

との斬りあいで 死亡した者より、粛清で落命した者の方が多いともいう。

新選組は、武士になることを宿願としており、目的達成のために武士に匹敵
する活躍をしたため、 特に現代の若者たちから幕末日本を象徴する存在と
みなされ、根強い人気を誇る。

新選組組員の墓参りをする女性ファンも多く、坂本龍馬ら勤皇の志士と共に
“日本史のアイドル的 存在”となっているが、明治政府がかれらと敵対する
勤皇派志士たちによって設立された経緯もあり、 近年まで史学的にもほとんど
注目されることがなく、現在における人気は子母沢寛や司馬遼太郎ら による
新選組をテーマにした数々の小説やTVドラマ・映画等の影響が大きい。

ただし、勤皇の志士たちを多く輩出した山口県などを出身とする人々には彼らを
「幕府に雇われたテロリスト集団」として位置づける人もいる
(松岡滿壽男参議院議員・当時の国会での発言[1]より)が、当時テロ行為を

行っていたのは、 現在の山口県にあたる長州藩出身の勤皇志士側であり、
新選組は日本政府である江戸幕府の 一組織としてテロ集団の弾圧に
当たっていたとするのが正しい。

隊の規律維持のために厳しい局中法度を定め違反者に対し粛清を行ったことや、
「誠」の一字の隊旗や袖口に山形の模様を染め抜いた独特の羽織でも知られる。