槍も使ったという話があるが、これは弟・谷万太郎のことと混同された
可能性もある。
備中松山藩主板倉勝静に仕えていたが、安政3年(1856年)頃、
不祥事により谷家は断絶。
これは三十郎本人でなく弟の万太郎の不祥事とも言われ定かでない。
新選組新選組への入隊は池田屋事件以前で、池田屋事件の際は
近藤隊に属している。
元治2年(慶応元年)1月、大阪取締りの際、弟・万太郎ら四人で
元治2年(慶応元年)1月、大阪取締りの際、弟・万太郎ら四人で
尊攘過激派による大阪焼き討ち計画を未然に防いでいる。
(ぜんざい屋事件)
その後同じ慶応元年、7番隊組長に抜擢される。
(この時槍術指導は弟・万太郎の役職とされる)
槍谷三十郎の槍は「千石もの」と言われたと伝わるが、逆に実戦では
ほとんど活躍していないただの道場槍であったとも見られている。
(あるいは弟・谷万太郎と混同されたとも考えられている。)
三十郎が隊士の切腹の際の介錯を失敗したと言う話も伝わるが、その
隊士が切腹するのは記録では三十郎の死後の事であるため、信憑性
は乏しい。
死因慶応2年4月1日、三十郎の死体が東山の祇園社
(現在の八坂神社)石段下で発見された。
死因は「頓死」とだけあり、明らかではない。 暗殺説、病死説の
二つの説もある。
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