2008年12月4日木曜日

尾形 俊太郎



おがたしゅんたろう、生没年不詳は、新選組隊士。
沖田総司や永倉新八などと同様の大幹部。諸士取調兼監察及び文学師範。
五番組組頭、副長助勤、目付も務めている。
肥後国熊本藩出身。緒方、小形とも。


新選組入隊は文久三年(1863年)五月二十五日以降。

同年六月の編成では、副長助勤を務めている。
八月十八日の政変に参加したものと考えられるが、元治元年(1864年六月の
池田屋事変には不参加である。
屯所警備に重んじていたか、もしくは当時隊内に病人が多かったらしいことから、
尾形もその一人とも考えられる。

同年十二月に長州征討を考えた行軍録では、五番組組頭に就任している。
近藤勇の信頼が厚かったようで、初期より重用され、元治元年に江戸への隊士

募集行きや、慶応元年(1865年)と慶応二年(1866年)の二度に渡る長州出張に
例外なく随行している。
慶応元年四月の編成では、諸士取調役兼監察方及び文学師範に就任し、文官
として高く評価されていたようである。

慶応三年(1867年)六月の幕臣取立では、副長助勤として見廻組格となっている。
慶応四年(1868年)一月に勃発した鳥羽・伏見の戦いでは目付を務め、大阪に

敗走後、江戸に帰還。
その後も在隊し、甲州勝沼の戦いを通して会津にへ向かい、同年八月二十一日の
母成峠の戦いで敗走。
二十二日に斎藤一こと山口次郎ら38名と共に会津若松城下外堀外の斉藤屋に
宿泊した記録を最後に消息を絶った。
会津まで新選組に同行した副長助勤は、この尾形と斎藤のみである。

2008年12月1日月曜日

原田 左之助




天保11年(1840年) - 慶応4年5月17日(1868年7月6日)は、新選組十番隊組長。
伊予松山藩出身。諱は忠一。谷三十郎から種田流槍術を教わり免許皆伝。

伊予松山藩の中間だったが、のちに脱藩。
少々、短気な人物であったようで、ある武士と喧嘩をして
「腹を切る作法も知らぬ下司め」と言われ、腹を切って見せた。
傷は浅かったので命に別状は無かった。
その傷から、「死損ね左之助」と隊内でアダ名されたようである。
腹に一文字の傷が残ったが、天気の良い日には傷を日にさらしながら
「てめぇたちのようなヤワなとは違うんだ。
俺の腹は金物の味を知ってるんだぜ」と言っていた。
これを元に家紋を○に切腹傷の一文字を入れた形にした。
しかし、その反面、愛妻家であったともいわれている。

かなりの美男子だった。
永倉新八とは仲が良かったようだ。
また、かなりの暴れん坊だったこともあり、酒を飲んでは腹の傷を
自慢したり、大声で 「切れ切れ!」と叫んだという。


長州の間者(スパイ)だったという楠小十郎を背後から斬り殺して
「あぁ、良い気持ちだ」と言って 笑っていたので、あとで近藤に酷く叱られた。

新選組近藤勇の江戸道場、試衛館以来の生え抜き隊士で十番隊組長となる。
種田流(または宝蔵院流)の槍の名手として知られた。
副長の土方歳三は、一番隊の沖田総司と十番隊の原田左之助を信頼して、
よく使ったという。
殿軍の組長として十番隊を指揮し主だった新選組の戦闘には原田の名が
必ずあり活躍している。
(芹沢鴨一派の粛清、長州の間者・楠小十郎斬殺、大阪西町奉行与力・内山
彦次郎暗殺、 池田屋事件、禁門の変、三条制札事件、油小路事件など)

一時は、坂本龍馬暗殺(近江屋事件)の下手人として疑われたが
(暗殺現場に落ちていた鞘を 伊東甲子太郎が原田の差し料と証言したため。
また、下手人が伊予の国訛りの言葉(「こなくそ!」)を発したのを聞かれたため)
実際は龍馬暗殺と 新選組とは関係がなかったといわれている
(京都見廻組であるとの説が有力)。

2004年のNHK大河ドラマ『新選組!』の中では、坂本龍馬暗殺犯が原田であると
いう当時の伝聞を 上手く利用した描かれ方がされていた。
鳥羽・伏見の戦い、甲陽鎮撫隊まで新選組として戦いその後、永倉新八と共に

靖兵隊結成。
だが、なぜか江戸を離れてから用を思い出したと江戸に戻って彰義隊に加入、
上野戦争の際に 負傷し、その傷がもとで明治元年5月17日に死亡する。
享年29。しかし、何故か隊の名簿に原田の名は載っていなかった。






馬賊伝説異説があり、日清戦争のときに松山で昔語りをする老軍人がいて
「私は原田左之助だ」と 名乗ったと伝わっている(日露戦争の時も)。
原田は上野、新潟、下関、釜山を経て大陸へ渡り馬賊の頭目になったという。

明治40年頃の新聞で報じられたが真偽は不明。
その他息子の名前は茂、この茂という名は江戸幕府14代征夷大将軍徳川家茂

から 一文字取ったと いわれている。
妻のおけいは昭和6年ごろまで生き、沢山の孫たちに見守られる中に

亡くなったとされる。




2008年11月20日木曜日

鈴木 三樹三郎



すずき みきさぶろう
天保8年7月15日(1837年8月15日) - 大正8年(1919年)7月11日)
新選組九番隊隊長。
また伊東甲子太郎(鈴木大蔵)実弟。
剣術は神道無念流。
御陵衛士、軍務局軍曹、酒田警察署長、福島県二等属、福島県学務課長など。
常陸志筑藩出身。

道場かなりの酒好きで、若い頃、いったん他家に養子入り(寺内多聞と称す)した
ものの、本人の素行の問題より養子縁組を取り消されている。
その後、三木荒次郎を名のっていた。

その後脱藩して、江戸深川の道場主であった兄伊東甲子太郎の道場で学ぶ。
新選組元治元年10月、近藤勇が帰府した際、その隊士募集に応じ、藤堂平助の
仲介で兄の甲子太郎らと加盟して上洛。
新選組時代は三木三郎、三木和泉と称す。
慶応元年 組織再編で九番組長となる。
剣術はあまり冴えなかったようだが、学問があり弁舌では兄と遜色なく、胆力が
あったようだ。

非常に丁寧な性格だったようで、その性格が災いして降格させられたとも
いわれている。

御陵衛士
慶応3年3月20日 兄の甲子太郎らと新選組から分離、御陵衛士
(高台寺党)に属す。
この頃、三樹三郎と改めた。
同年11月18日、甲子太郎が新選組によって暗殺。
屯所に居合わせた同志らと遺体収容に駆けつけるが、待ち伏せていた新選組との
乱闘を切り抜け薩摩藩邸に保護される。(油小路事件)
一ヶ月後の12月18日、高台寺党の残党が伏見黒染周辺で近藤勇を襲撃。
右肩に銃創を負わせた。
しかし、この事件に三樹三郎が参加していたかどうかは不明とする説もある。

鳥羽・伏見の戦い
慶応4年1月3日 鳥羽・伏見の戦いでは薩摩藩の中村半次郎の指揮下に入り、
土方歳三が指揮する伏見奉行所の新選組と戦った。
その後、幕府追討のための東征軍の先鋒隊に合流する。
この東征軍は1月10日から赤報隊を名乗り、2番隊の隊長になる。
しかし2月に解隊。
偽官軍との誤解を受けて一時入牢の後、徴兵七番隊に加わった。
同年六月に軍務局軍曹に任じられる。
明治以降明治2年7月 弾正台少巡察となる。
廃藩置県後、名前を忠良に改め、明治12年 鶴岡警察署長に任命され、
明治14年の天皇行幸の指揮を執った。
その後司法、警察の仕事に携わり明治18年1月の福島県二等属を最後に退職。
現在の茨城県石岡市で余生をすごす。
大正8年7月11日 老衰のため死去。享年83。
墓は茨城県石岡市の東耀寺にある。

2008年11月18日火曜日

藤堂 平助



とうどう へいすけ







弘化元年(1844年) - 慶応3年11月18日(1867年12月13日)は、新選組8番隊組長。
のち御陵衛士(高台寺党)。
一本気な青年で、尊王攘夷論者であったようだ。
藤堂の性格については、江戸っ子で有意の人材であり
(御陵衛士同志鈴木三樹三郎談)、経済に達し戟剣をよくする
(学問においても武術においても秀でていた)、等といった記録が垣間見られる。
加えて江戸育ちらしい洒落っ気があったのか
「品行はよろしくないが人物がしっかりしている」との記述も。
容貌については、小柄で美男子であったらしい、と、伝聞を書き留めた記録
が残っている。
藤堂和泉守の落胤?武蔵国江戸出身。諱は宜虎(よしとら)。

永倉新八の同志連名記、及び京都在留当時の風聞書によれば、
伊勢・津藩主藤堂高猷の落胤といわれているが真相は不明。
また津藩の支藩である伊勢久居藩の家老藤堂八座の子とも云い、通称の「平助」
藤堂家功臣の名乗りを嗣いだものとも伝えられる。

これは藤堂の佩刀であった上総介兼重と銘打たれた長刀が藤堂藩お抱え刀工で
あったためであるらしい(会津藩庁新撰組御一行刀改控より。
藤堂の刀は上出来作であったらしい。但しこの差料は池田屋事件の激闘の為に
修復不可能なほどにぼろぼろになったそうである)。
ただ、上総介兼重は一介の素浪人が持てるような(安価な)刀ではないことを
考えると、ご落胤の可能性は高いとも考えられる。
北辰一刀流目録であったといわれている。

千葉道場玄武館の門弟とされているが、後の御陵衛士同志の加納鷲雄証言では、
「(深川にあり、伊東甲子太郎のやっていた)伊東道場の寄り弟子」であったという。
しかし、伊東道場についての詳細な史料は現存していないようで、こちらも詳細は
不明ようである。
ただどちらにしろなんらかの理由で免許を授かるまえに道場に
顔を出さなくなっている。
魁(さきがけ)先生近藤勇の道場 試衛館以来の(と、新撰組顛末記に記載されて
いる)いわゆる生え抜き隊士で、新選組結成当時からの同志。
藤堂は小柄で美男子ながら勇猛果敢な男であったらしい。
剣の腕もかなりのもので初期は沖田総司、永倉新八とともに近藤四天王とも称
され、市中見回りにおいては常に先頭を歩いたという。

魁先生という名はどうもここからきたようだ。
礼儀作法を備えている反面、品行は悪かったらしい。
御陵衛士時代は侠客300人を束ねていた。
試衛館時代から近藤に品行の事でいつも注意されていたようで、近藤はだんだん
品行の悪い藤堂を疎外していったとされている記述もある。
彼の新選組在籍当時において特に目立った活動を示す史料は見つかっていない。
北辰一刀流を学んだというから(同流派の道場ではたいていどこでも上下関係が
厳しかったそうである)、おそらく礼儀作法を身に着けていただろう藤堂は、もしか
すると局内で接客応対や事務処理などを担当していたのかもしれない。
池田屋事件では油断をして鉢金を取ったところを斬りつけられ額を負傷したという。
それまでの奮戦は凄まじかった(最初に斬り込んだ四人の内の一人)ようで、
佩刀はぼろぼろになり、鍔元には修復は不可能なほどのひび割れを負った。
事件後、近藤勇、土方歳三に次いで褒賞金を幕府から下賜されている
(この金子をなかなか受け取らなかったという説がある)。

元治元年11月、新選組は江戸にて大規模な隊士募集を行った。
藤堂はこれ先立って、志願者を集るため江戸に下った。9月初旬に藤堂が入隊の
誘いに来たと、当時伊東道場に出入りしていた加納の証言がある。
この道場の主、伊東大蔵(後の甲子太郎)は、どうもかねてから親交があった
ようである。

御陵衛士藤堂の転機が訪れたのは、いつだったのか。
慶応元年の2月。新選組創設時からの同志で北辰一刀流の同門、総長 山南敬助
の脱走・切腹事件があった(異説あり。山南は脱走していなかったのではないかと
いう説も存在する)。
これが彼の人生指針にどのような影響を及ぼしたのかはわからないが、
慶応3年3月 伊東甲子太郎と共に御陵衛士(高台寺党)を結成すべく新選組
を離脱している。

慶応2年時の彼が何をしていたのかについては今のところ明確な資料は残って
いないが、新選組離脱当日は、どうも美濃国へ出張していた様子である。
後に御陵衛士に民兵を貸しバックアップ等に尽力することとなる水野弥太郎という
侠客が美濃にいたことから、どうも、後の下地を作るために彼と会っていたのでは
ないかと思われる。

御陵衛士とその他随行同志たちとは、美濃から戻ったそのままの足で合流した
ようである。
御陵衛士時代の彼の活動についても、記録は残っていないようである。

ただ、藤堂は「南部弥七郎(弥八郎という場合もあったようだ)」と改名している
ことから、おそらくは新選組時代に負った風評が同志の活動に及ぼすであろう
悪影響を懸念し息を潜めていたのかもしれない。
御陵衛士同志たちは伊勢や西国など、様々な場所に遊説をしているが、そのどれ
にも藤堂は加わった形跡が無い。
唯一、美濃の侠客水野弥太郎の元を訪れて博徒中心の、民兵300名を軍隊風に
指揮指導していたらしいとの記録がある。
慶応3年11月18日、油小路で新選組に討たれる(油小路事件)。
永倉新八の証言(新選組顛末記)によれば、彼が油小路に向かう前、近藤の口
から「藤堂だけは生かしておきたいものだな」と聞き(維新のずっと後、明治後期
の新聞記者による遺談をまとめた新聞での連載記事であることから、後の創作
の可能性が高い)、藤堂が逃げられるように道をあけたが、事情を知らぬ隊士
三浦常三郎に斬られた(これも異説あり。
上記顛末記によれば、三浦は油小路の後悔恨のあまり藤堂に受けた傷が悪化し、
心身を病んで死んだとされるが、永倉新八の同志連名記によれば、彼は戊辰戦争
中に大阪近郊で死亡とされている)。
子母澤寛の『新選組始末記』によると、永倉の深意はくみ取ったものの、魁先生
と呼ばれたプライドと同士を見捨てられないので、新選組に立ち向かって
三浦常三郎に斬られたとある。 また永倉の深意を汲み取り、退こうとしたところを
三浦常三郎に後ろから斬られた。
このため藤堂は応戦(後ろから背中を斬られるのは武士の恥なので藤堂は許せ
なかったと)して数々の傷を負い、戦死したとされる説もある。
ちなみに事件後の検死結果によると、額から鼻にかけて断ち割られ、傷は長さ
約21㎝、深さ6cmに達し、ほぼ即死の状態であったとされる。
墓碑には享年24と記載されている。 墓は戒光寺にあり、同志で同日共に討ち死
にした伊東甲子太郎、毛内監物、 服部武雄と同じ敷地内に埋葬されている。
益荒男の七世をかけて誓ひてし ことばたがはじ大君のため - これは藤堂が
読んだ最後の短歌とされる。
生存説昭和55年「歴史と旅」11月号、谷春男執筆の「油小路の藤堂平助」
によれば、藤堂は九死に一生を得て包囲網から脱出したとされている。
その後、経緯は不明だが横浜に居住しており、どういう繋がりかはわからないが、
藤堂の親戚の娘が嫁入りした関係か、小田原の万福寺にちょくちょく遊びに
来ていたという。 横浜では、旧新選組隊士の川村三郎と共に、水道工事事業に
絡む利権で一儲け したといわれている。
その後大正11年から12年頃、横浜で没したという。
息子がいたらしいが名前はわかっていない。

2008年11月17日月曜日

谷三十郎



谷三兄弟幼少の頃、父・谷三治郎より剣術を学んでいた。
槍も使ったという話があるが、これは弟・谷万太郎のことと混同された
可能性もある。
備中松山藩主板倉勝静に仕えていたが、安政3年(1856年)頃、
不祥事により谷家は断絶。
これは三十郎本人でなく弟の万太郎の不祥事とも言われ定かでない。
新選組新選組への入隊は池田屋事件以前で、池田屋事件の際は
近藤隊に属している。
元治2年(慶応元年)1月、大阪取締りの際、弟・万太郎ら四人で
尊攘過激派による大阪焼き討ち計画を未然に防いでいる。
(ぜんざい屋事件)
その後同じ慶応元年、7番隊組長に抜擢される。
(この時槍術指導は弟・万太郎の役職とされる)
槍谷三十郎の槍は「千石もの」と言われたと伝わるが、逆に実戦では
ほとんど活躍していないただの道場槍であったとも見られている。
(あるいは弟・谷万太郎と混同されたとも考えられている。)
三十郎が隊士の切腹の際の介錯を失敗したと言う話も伝わるが、その
隊士が切腹するのは記録では三十郎の死後の事であるため、信憑性
は乏しい。
死因慶応2年4月1日、三十郎の死体が東山の祇園社
(現在の八坂神社)石段下で発見された。
死因は「頓死」とだけあり、明らかではない。 暗殺説、病死説の
二つの説もある。

2008年11月16日日曜日

井上 源三郎



(文政12年3月1日(1829年4月4日) - 慶応4年1月5日(1868年1月29日)は、
新選組六番隊組長。諱は一武(かずたけ)。

源三郎は生真面目で誠実な人物だと伝わっている。
彼に関しては、たとえば、壬生で沖田総司が子供たちと遊んでいる時に源三郎が
通りかかり、 総司が「また稽古ですか、熱心ですね」と声をかけると、「わかって
いるなら稽古をしたら良いのに」 とたしなめた、といったエピソードが残っている。
また八木為三郎は「井上はその頃四十歳くらいで、ひどく無口な、それでいて
非常に人の良い人でした」 といった意味のことを語っている。
無口だが温厚な性格で、若い隊士からの人望も厚かったという。
一方で頑固な面もあり、一度言い出すとテコでも動かないところがあったともいう。

武州日野宿北原(ひのじゅくきたばら/現在の東京都日野市日野本町)に
八王子千人同心世話役の井上藤左衛門(松五郎とも)の三男として生まれる。
兄・松五郎は千人同心。

試衛館弘化4年(1847年)頃、源三郎は当時多摩に広まりつつあった
天然理心流の三代目宗家・近藤周助に入門する。
土方歳三の義兄、佐藤彦五郎が天然理心流の出稽古用に設けた道場で土方らと
共に稽古に励んだ。
また、近藤勇の兄弟子でもあった。
彼らとは、この時期以来親交を深めていったとされる。
万延元年(1860年)、免許皆伝を受ける。

新選組文久2年2月、清河八郎献策の浪士組に近藤・土方らと参加。
文久3年9月の芹沢鴨一派の粛清後は副長助勤となり、以後、新選組の幹部で
あり続ける。
同郷・同門の局長近藤や副長土方をよく補佐し、お互いに絶大な信頼で結ばれ
ていた。
隊内では主として対外的な職務や要人の接待などの総務を担当。

元治元年6月の池田屋事件では土方隊の支隊を指揮し、近藤隊が斬り込んだ
知らせを受けると十人の部下と池田屋に入り、八人の浪士を捕縛するなど活躍
した。
剣豪揃いの新選組にあって、源三郎の剣は目立たなかったが、自分の立場を
よく理解し、落ち度無く任務を遂行する人物であったようだ。

慶応元年6月の組織再編成で六番隊組長に任じられる。
慶応3年6月、新選組総員は幕府直参に取り立てられるが、その際源三郎は
副長助勤として七十俵三人扶持を与えられる。
しかしその後の幕末政局は、大政奉還、王政復古の大号令と続き、佐幕派の

新選組に属する源三郎らは劣勢に立たされていく。

淀千両松の戦い慶応4年1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発する。
新選組は伏見に屯所を移していたが、淀まで退却。
1月5日、淀千両松で新選組は官軍と激戦(淀千両松の戦い)。
その戦いの最中、敵の銃弾を腹部に受けて戦死した。享年40。

甥である井上泰助が源三郎の首を持ち帰ろうとしたものの、あまりの重さの
ために仲間の隊士から諭されて、戦場の近くの寺院の境内に源三郎の首を
埋葬したというエピソードが伝わっている

その他首と刀は甥の井上泰助が近くの寺院に埋めたとされるが、いまだに
正確な場所は不明である。なお、墓所は日野市の宝泉寺となっている。



2008年11月15日土曜日

武田 観柳斎


天保元年(1830年)頃 - 慶応三年6月22日(1867年7月23日)
は、出雲国母里出身の新選組隊士。
五番隊組長、兵学・文学師範、軍事方(軍奉行)。
本名は福田廣。徳裕とも。

脱藩ののち江戸に出向き、甲州流軍学を学ぶ。
甲斐武田氏にちなみ、「武田観柳斎」を名乗るようになる。
文久3年(1863年)に入隊。軍学者として近藤勇に重用され、翌元治元年(1864年)
には 副長助勤として幹部に抜擢。
同年6月5日の池田屋事件の際、武田らは長州人などの潜伏浪士に便弁を図って

いた 古高俊太郎を捕える。
その後近藤隊に属し、池田屋の周囲を固めた他、戦闘時は土佐浪士・大秋鼎を
斬殺し、 褒賞金を賜っている。
7月19日の禁門の変では、軍事方として戦略担当幹部となり、天王山攻略などで
甲州流軍学を発揮した。

慶応元年(1865年)の組織再編で五番隊組長になる。
隊では甲州流軍学をふるい隊士の訓練を行っていたが、その巧みな弁舌で幹部

連中に 媚びへつらう姿に嫌悪感を示す隊士も少なくなかったという。
その後、新選組が幕府に準えて洋式調練を取り入れたことにより、武田の軍学は
徐々 に時代遅れのものとなっていった。
隊内での立場を失った武田は、脱退を図って伊東甲子太郎に接近したり、倒幕派

である 薩摩藩との接触も企てるなどした。
しかしそれらの行動を近藤や土方歳三らに看破される。

慶応3年6月22日、除隊を申し出た武田の送別会と称し、近藤が宴を開いた。
しかしこれは、無論武田暗殺の宴であった。
宴の後、斎藤一、篠原泰之進が武田を送ることになり伏見薩摩藩邸に共に
向かった。
途中鴨川銭取橋で斎藤一によって暗殺された (この暗殺者には諸説あり、
当時斎藤らは御陵衛士に加わっており、暗殺したのは別の隊士の可能性
もある)。
後日、加藤羆という隊士が武田観柳斎に同心したとして、
切腹させられている。






2008年11月14日金曜日

松原 忠司


(まつばら ちゅうじ、 天保五年(1835年)?
- 慶応元年9月1日(1865年10月20日))は新選組
において副長助勤(四番隊組長)と柔術師範を務
めた播磨出身の浪士
(永倉新八によれば大坂浪人)。
後述のようにその死については諸説ある。

略歴播州小野藩士の子として生まれる。
安政年間に脱藩。
大坂にて関口流柔術の道場をひらいていた
といわれる。
文久三年五月には新撰組の前身である
壬生浪士組に入隊している。
文久三年、八月十八日の政変では坊主頭に
白鉢巻、脇には大薙刀を備え弁慶さながら
格好で仙洞御所前および禁裏御所南門の
警備にあたり、「今弁慶」の異名をとる。
元治元年の池田屋事件では土方隊に属し、
当夜の戦功により報奨金15両を賜る。
慶応元年四月の組織再編で四番隊組長・柔術師範となる。
慶応元年、死去。その死については諸説ある。
風体・人柄坊主頭で色白の巨漢。温厚な人柄で知られ、
「親切者は山南(山南敬助)と松原」といわれたという。
山南が自分の鎧がないことに腹を立て、それをなだめた逸話が残る。
『今弁慶』の異名松原は、八月十八日の政変の出動の際、丸坊主に白鉢巻、
大薙刀を携え、さらに巨漢であった。
その異様な出で立ちから、『今弁慶』の異名を取ったと言われる。
松原の死松原の死については病死と心中という二つの説がある(新選組の
記録には「病死」とある)。
何らかの理由で切腹したが未遂に終わり、その後平隊士に降格された
という点は多くの話で共通する。
しかし心中説は子母沢寛(あるいは八木為三郎)が「新選組物語」にて
「壬生心中」として創作したのではないかといわれる。
病死説
何らかの失策により切腹を図るも制止され、その傷がもとで病死した。
心中説
松原が四番隊組長並びに柔術師範となってからまもなく、松原は屯所の
近くに愛人(自分が殺害した浪人の妻女)を囲っており、その件を副長の
土方歳三に厳しく咎められた。
そこで、幹部としての責任を感じ自ら切腹。
しかし、失敗に終わり(篠原泰之進がいち早く発見)疵を負った。
一旦は直り、平隊士に降格。自暴自棄に陥ったようだ。
それからしばらくして、疵が悪化し、それがもとで死に至った。
「壬生心中」について松原の死に関しては、新選組が屯所を構えていた
八木家の八木為三郎が篠原泰之進や斎藤一から聞いた松原忠司の話
を子母沢寛が再構成した「壬生心中」がある。
しかし、子母沢寛の作品や八木為三郎の語る話には脚色や創作が
しばしば見られるため、この話も事実であるかどうかには疑いがある。
その他墓は光縁寺にある。

2008年11月13日木曜日

斎藤一



(さいとうはじめ)、
天保15年1月1日(1844年2月18日)
-大正4年(1915年)9月28日)は、幕末から明治に
かけて活躍した武士。
新選組隊士。
新選組で三番隊組長や撃剣師範などを務める。
明治には内務省警視局(警視庁の前身)に
登用され警視官となる
(現在の警察官を当時「警視官」と呼んだ)。
階級は警部補。
西南戦争では警視官によって編成された
別働第3旅団に所属して従軍した。




生涯
出自明石藩を浪人したあと石高1,000石の旗本鈴木家の家臣となった山口祐助の

次男として生まれた。
会津藩出身と書かれた史料もあるが、一次史料ではないとされる。
江戸にいた時近藤勇の道場試衛館 に出入りしていたという史料もあるが、のちに
近藤が京都に滞在した試衛館の一同に武具を届けさせた とき、そのなかに斎藤
は含まれていなかった。
新選組隊士文久3年(1863年)3月10日、芹沢鴨・近藤勇ら13名が新選組の前身、

壬生浪士組(精忠浪士組とも呼ばれる)を結成。
藩主松平容保が京都守護職を務めていた会津藩の預かりとなる。
同日、斎藤を含めた11人が入隊した。試衛館以来の近藤の同志で、近藤と一緒に
上洛したという説もあるが、少なくとも、斎藤の上洛は近藤とは別行動だった。
尤も近藤とともに上洛した者達にしても、統一行動をとっていたわけではない。

その後、新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢された。
一般的に新選組幹部で一番若いと思われているのは沖田総司であろうが、
最年少は斎藤である(沖田の生年については異説あり)。
のち、組織再編成のさいには組長となり、さらに撃剣師範なども務めた。

慶応3年(1867年)3月伊東甲子太郎が御陵衛士を結成して新選組を離脱する
際に 行動をともにしたが、のちに新選組に復帰した。
御陵衛士の活動資金を盗んだためだという説やもともと新選組の間諜として
潜入 していたのだという説もあり、この時期の行動についてはその事実関係や
動機が 明確になっていない。
新選組が伊東を暗殺した油小路事件は、斎藤が復帰の際にもたらした情報に
基づ いて起きたという説もある。

同年12月7日の天満屋事件の際には、紀州藩の依頼を受けて、紀州藩士
三浦休太郎を護衛していた。
海援隊士らの襲撃のとき三浦と共に酒宴を開いていた新選組は遅れをとり、
宮川信吉と舟津釜太郎が死亡したほか、梅戸勝之進が斎藤をかばって重傷
負うなどの被害を出したものの、護衛には成功している。
戊辰戦争慶応4年1月に鳥羽・伏見の戦い、3月甲州勝沼の戦いと転戦。

いずれも最前線で戦った。

近藤が流山で新政府軍に投降したあと、江戸に残った土方歳三らといったん
別れ、 隊士たちの一部を率いて会津へ向かった。
一方このとき斎藤は負傷して戦列を離れており流山にはいなかったという説
もある。
こちらの説では、隊士を率いて会津に向かったのは粂部正親または
安冨才助と されている。
土方は同年4月の宇都宮城の戦いに参加、足を負傷して戦列を離れ、田島
を経由 して若松城下にたどり着き、斎藤らと合流した。

斎藤をはじめとする新選組は会津藩の指揮下に入り、閏4月5日には白河口
の戦い に参加、8月21日の母成峠の戦いにも参加した。
敗戦により鶴ヶ城下に撤退。土方と合流したのはこの撤退の最中、猪苗代

でのこと だった。
その後、土方らは庄内に向かい、大鳥圭介ら旧幕臣の部隊は仙台に転戦
したが、 斎藤は会津に残留し、会津藩士とともに城外で新政府軍への
抵抗を続けた。

9月22日に会津藩が降伏したあとも斎藤は戦い続け、容保が派遣した使者
の説得を 受け入れてやっと新政府軍に投降した。
降伏後は捕虜となった会津藩士とともに、はじめは旧会津藩領の塩川、
のち 越後高田で謹慎生活を送った。

明治以降会津藩は降伏後改易され、松平家は家名断絶となったが、
治2年11月3日に 再興を許された。
知行高は陸奥国内で3万石とされ、藩地は猪苗代か下北かを松平家側で
選ぶこととされた。
東京で捕虜となっていた山川浩ら旧藩幹部は、高田で謹慎していた藩士ら
に諮ることなく 下北を選択。
藩名は新たに斗南藩と命名された。斎藤も斗南藩士として下北半島へ赴く。
斎藤は、斗南藩領の五戸に移住し、篠田やそと最初の結婚をした。

篠田家は「諸士系譜」 からも確認される名家で、会津藩士としては大身
に属する。

白虎隊士中二番隊に属し、飯盛山で自刃した篠田儀三郎とは遠縁に
あたる。
のち、容保の上仲人、佐川官兵衛と倉沢平治右衛門の下仲人で
高木時尾と結婚した。

時尾とのあいだには、長男・勉、次男・剛、三男・龍雄の3人の息子
が生まれた。
いずれも斗南藩士の娘と結婚している。

その後東京に移住。
新たに募集された警視官に応募し、採用された。
明治10年(1877年)2月には警視局の警部補に任ぜられる。
同年2月15日、西南戦争が勃発。豊後口警視徴募隊に抜刀隊
として参加し、同年5月に 戦闘参加。
抜刀斬り込みの際、銃撃戦で負傷するがその天才的な剣技と
指揮力で、薩摩兵を圧倒。
大砲2門を奪取するなど、当時の新聞に報道されるほどの活躍
をしている。

明治24年(1891年)、警視庁を退職し、その後は東京高等師範学校
などに警備員として 勤務した。
大正4年(1915年)9月28日、胃潰瘍のため死去。
床の間に座ったまま往生を遂げたと伝えられる。
享年72。墓は福島県会津若松市の阿弥陀寺にある。
人物剣の流派は一刀流とも無外流とも伝えられているが、確実なこと

は不明である。
特技の「左片手一本突き」から、斎藤は左利きだったという説もあるが、
史実である 可能性は低い。
後世、小説家などの創作のなかで左利きとされているものもあるが、
中島登の残した 絵図の描写では、右利きの者と同じ位置で刀を
構えている。
沖田総司や永倉新八と並んで、新選組最強の剣士の一人といわれている。
永倉は弟子に「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と語ったという。

4度の改名「斎藤一」という名は、京都に移ってから新選組全盛期にかけての
ものである。
最初の名前は山口一である。 「一」の名は彼の誕生日(1月1日)に由来する
ともいわれるが史料的根拠はない。
文久2年、江戸で刃傷沙汰を起こして京都へ逃亡し、斎藤一と名を変えた。
慶応3年に山口二郎(次郎とも)と改名。
会津藩に属して戊辰戦争を戦っている時期には一瀬伝八を名乗った。
斗南藩に移住してからは、藤田五郎と改名した。
明治5年の壬申戸籍には「藤田五郎」として登載されている。

別人説斎藤一と藤田五郎は別人であるとする説もあるが、実兄である
山口廣明の 恩給請求書に藤田五郎が親戚として署名していること、
藤田五郎の子孫が所蔵する 「藤田家文書」が斎藤一を名乗った時期
から書きはじめられていることなどから、 現在では別人説は
否定されている。





2008年11月12日水曜日

永倉 新八


(ながくら しんぱち)
天保10年4月11日
大正4年没
新撰組二番隊組長
撃剣師範。
本姓は「長倉」。
幼名は栄吉、栄治。
諱は載之(のりゆき)。
明治4年以降は杉村義衛。
試衛館松前藩の人。
弘化3年(1846年)8歳の
とき岡田十松(3代目)
利章の神道無念流
剣術道場「撃剣館」入門。
松前藩上屋敷(現・東京都台東区小島二丁目付近)から通う。
4年目に師が死に以後岡田助右衛門に教わり15歳で切紙。
安政3年(1856年)18歳で本目録。元服し新八と名乗る。
のち脱藩して剣術修行の旅にでる。
武者修行中に、江戸市谷に道場試衛館を構え武州多摩地方
で門人を持っていた天然理心流の近藤勇に食客として入門する。
新撰組近藤らとともに浪士組に参加し、二番隊組長を務めるなど
新撰組結成以来の中心人物であった。
芹沢鴨と同じ神道無念流の免許皆伝であり、芹沢とも親しく交わっていた。
1864年(元治元年)池田屋事件では、近藤勇、沖田総司らと共に奮戦。
沖田が倒れ、藤堂平助が負傷する中、永倉は獅子奮迅の働きをみせた。
池田屋で一躍勇名を馳せた近藤には、一時、我儘な振る舞いが目立つように
なったとされ、それを遺憾に思った永倉は、原田左之助、島田魁らと共に、
脱退覚悟で近藤の非行五ヶ条を会津藩主松平容保へ訴え出た。
これには、近藤を局長と認め従うが、我等は近藤の家臣ではなく同志だと
する主張が込められていた(この近藤の一時の増長は、武田観柳斎に隊士
みな家臣として局長を慕っていると吹き込まれた為ともいわれている)。
この訴えを受けた容保のとりなしで近藤は身を改め、新選組は固い結束を
取り戻した。
永倉はその後、幕府から見廻組格70俵3人扶持として取り立てられた。
油小路事件では原田左之助らとともに御陵衛士の粛清に当たった。
御陵衛士には試衛館からの盟友であった藤堂平助がいた。
近藤の「藤堂だけは生かしておきたいものだ」という言葉もあり、永倉も平助を
逃がそうと試みたが、平助は三浦常三郎の手によって討ち取られた。
沖田総司が病床に伏せると沖田の一番隊も指揮し重要な任務を数々こなした。
1868年(慶応4年)に新政府軍との戊辰戦争が始まり、京都の鳥羽伏見の戦い
では、決死隊を募り官軍の銃弾に対して刀一つで突撃する豪胆さも見せた。
その後は新選組から名を改めた甲陽鎮撫隊に属して戦うが、敗れ官軍支配下
の江戸に戻る。
江戸にて、近藤らと分離して結成した靖共隊(靖兵隊)に属して戦うが、援軍を
求め米沢藩に滞留中、会津藩の降伏を知り、その後江戸へ帰還。
松前藩への帰藩が許され保護される。その後1871年(明治4年)藩医の
杉村介庵の婿養子となり北海道松前町に渡る。
明治以降明治6年(もしくは8年)、家督を継いで杉村治備(後に義衛)と名乗る。
その後北海道小樽へ移り1882年(明治15年)、その苛烈さから鬼典獄(所長)
と呼ばれた月形潔が管理する「地の果ての獄」樺戸集治監の剣術師範に招
かれ1886年(明治19年)までその職にあった。
退職後は東京へ再度戻り牛込にて剣術道場を開く。
1891年(明治24年)、日清戦争開戦の折には57歳となった永倉は抜刀隊に
志願する。しかし「お気持ちだけ……」と言われ断られる。
永倉は「元新選組の手を借りたとあっては、薩摩の連中も面目丸つぶれという
わけかい」と笑ったという。
維新後、数少ない新選組幹部の生き残りとして、板橋に近藤勇、土方歳三の
墓を建立した。
1899年(明治32年)、妻と子供が北海道小樽色内で薬局を開局していた為に
小樽へ再度移る。
1905年(明治38年)から小樽緑1丁目(旧小樽少年科学館付近)に移り、1909年
(明治42年)7月に花園町(小樽市役所の正面玄関を真正面に見て左の位置に
ある当時の建物名『小樽聯合(れんごう)衛生組合事務所』跡)で住む。
映画を好み孫を連れてよく映画館に通ったという。
「近藤、土方は若くして死んでしまったが、自分は命永らえたおかげで、この
ような文明の不思議を見ることができた」と語っていたという。
ある時、映画館の出口で地元のヤクザにからまれ、鋭い眼力と一喝で退散させた
(実際は手拭で戦った、杖を持っていた、という説もある)というエピソードもある。
1913年(大正2年)5月22日には近藤勇の娘、山田音羽と対面をしている。
1915年(大正4年)1月5日に虫歯が原因の骨膜炎、敗血症で北海道小樽市にて
死去、享年76。
墓所は分骨され、東京都北区滝野川の寿徳寺境外墓地、
札幌市清田区里塚霊園(一期三号762番)北海道小樽市中央墓地他。
新撰組の隊長格でも屈指の剣腕を誇り、阿部十郎は一に永倉、二に沖田、
三に斎藤一の順であったと後年語っている。
「龍飛剣」と称する下段の構えから上へ敵の剣を擦り上げながら下へ切り落とす
技を得意としていた。
京都で島原亀屋の芸妓である小常を妻とし、小常は娘の磯子を産んだ後に他界
している。
磯子は永倉が京を去る際に小常の姉に預けられ、1900年(明治33年)には関西
で名を尾上小亀とした女役者になり、再会も果たしている。

2008年11月11日火曜日

沖田 総司













沖田 総司
天保13年(1842年)又は15年(1844年)夏の日 慶応4年5月30日(1868年7月19日)
生年については二つの説があり、決定的な否定史料が見つかっていない。
また生誕時の月日に関しては特定できる史料が一切出ておらず、夏であった
ということしかわかっていない。

江戸時代後期、幕末の新選組の隊士。
副長助勤、一番隊組長、撃剣師範。
本姓は藤原を称した。
諱は春政、後に房良に。幼名は宗次郎。
父は陸奥白河藩士の沖田勝次郎で長男。
2人の姉がおり、沖田家は姉のみつが婿の林太郎を迎えて相続させる。
みつの曾孫の沖田哲也は行政学者で明治大学政経学部名誉教授。

生涯江戸、白河藩屋敷(東京都港区)で生まれる。
父の勝次郎は4歳のときに死去し、母とも死別したとされる。
9歳頃に、江戸市谷に天然理心流の道場を開く近藤周三の内弟子となり、
試衛館にて後に新選組結成の中核となる近藤勇、土方歳三らと同門になる。
若くして天然理心流塾頭を務める。沖田は無類の天才剣士であったと
言われるが、江戸の頃の教え方はかなり荒っぽいものであったらしい。
後年になると穏やかな教え方へと変化した。
文久三年(1863年)の浪士組結成に参加して上洛、分裂後は近藤らに従い
残留し、新選組を結成する。沖田の一番隊は常に重要な任務をこなし、剣豪
ひしめく新選組の中でも一、二を争う程多くの人を斬ったと言われ、この時期
では9月の芹沢鴨暗殺、内山彦次郎暗殺など手がけた。
沖田が人を斬ったことを記す初めての記録は文久三年3月24日の夜。
清河八郎の呼びかけに集まった浪士組の一番隊の殿内義雄だった。
元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件で、討幕派数人を切り伏せ活躍した
ものの、直後に肺結核により喀血して倒れる(諸説あり)とされていたが、
その後の新選組史において依然として活躍していることから、この日に
肺結核が発症したとは考えにくい。
そのため熱中病により倒れたとの説もある。
慶応元年(1865年)2月、総長の山南敬助が脱走した事件では、追っ手と
して差し向けられ近江草津で捕らえる。山南は沖田の介錯で切腹した。
沖田は山南を兄のように慕っていたとされるが、故郷への手紙では山南の
死に関して軽く触れるに留められている。
第一線で活躍することがなくなるのは慶応三年(1867年)以降で、
鳥羽伏見の戦いは参戦できず大坂に護送される
(現在は、鳥羽伏見の戦いに向かう間に負傷し、大阪に護送される船中
において肺結核を患ったとする説が有力である)。
鳥羽伏見の敗戦後、隊士と共に海路江戸へ戻り、甲陽鎮撫隊に参加する
(諸説あり)も中途での落伍を余儀なくされる。
以後は幕臣の松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われたとされ、慶応四年
(1868年)に死去。
生年が明確で無いため享年については諸説あり、25~27と考えられている。
慶応三年12月18日、沖田が療養のため滞在していた近藤の妾宅を、
元御陵衛士・阿部十郎、佐原太郎、内海次郎の3人が襲撃した。
前月に彼らの指導的立場であった伊東甲子太郎を殺害した新選組への報復
として狙われたものだが、沖田は伏見奉行所へと出立した後で難を逃れた。
同日夕刻、阿部らは二条城から戻る途中の近藤勇を銃撃、負傷させている。
近藤勇斬首から2ヶ月後、近藤勇の死も知らずに亡くなった。
辞世の句は「動かねば闇にへだつや花と水」とされる。
墓所は、東京都港区元麻布三、専称寺ほか。
専称寺による戒名は「賢光院仁誉明道居士」。
また、沖田家累代墓碑には天然理心流の他、北辰一刀流の免許皆伝を得て
いた旨も記されている。
なお、没時年齢については沖田家累代墓碑の24歳、沖田家文書の25歳、
『両雄士伝』(小島鹿之助)における上洛時の年齢(22歳)から計算した27歳の
3説が存在する。
また、終焉地も千駄ヶ谷のほか、今戸(台東区)説もあるが、現在では、今戸に
一時逗留した後に千駄ヶ谷に移り、そこで亡くなったとする説が有力である。
佐久間象山の息子三浦啓之助がある隊士にからかわれた。
後日、土方と沖田が碁を打っている側で三浦をからかった隊士を三浦が背後から
斬りつけると、沖田は三浦が後ろから斬りつけた卑怯さに激怒し「この馬鹿野郎」
と叫び三浦の襟首を引っつかんで頭を畳に押し付け引きずり回し、三浦は鼻の皮
を真っ赤にすりむいたという話が伝わっている。
凄腕の一番組長としての顔とは裏腹に、当の本人はいつも冗談を言っては笑って
いた陽気な人物であったようだ。
屯所界隈の子供達ともよく遊んであげていたようで、作家の司馬遼太郎は新選組
を題材とした作品を執筆する際、幼い頃に沖田に遊んでもらったという老婆を取材
している(取材が1960年前後とすると、明治維新が1868年なので、かなり高齢では
あるものの実際の沖田総司を目にした人々が生きていたのである)。
近藤・土方など新選組についての酷評で知られる西村兼文ですら、山南と並び
沖田についても批判を残していない。
これは西村が山南と沖田には悪意を持っていなかったことの表われと見られ、
従って沖田は新選組に表立って敵対した者以外には人当たりの良い好人物
であったと考えられている。
死の際には、植木屋の庭に現れる黒猫を斬ろうとして幾度となく失敗し、己の
衰えを痛感した沖田は「ああ、斬れない。婆さん(付添いの老婆)、
俺は斬れないよ」と嘆いていたという。
(ただし、この話は子母沢寛による創作であると言われる)
死の間際まで「(近藤)先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」
と、師を気遣う言葉を幾度となく口にしたとも伝えられている。
近藤の死に関して周囲の者は固く口止めされていたため、沖田は近藤の死を
知らずにこの世を去ったのである。
これに先立って、甲陽鎮撫隊が出陣する際に近藤が沖田を見舞うと、普段は
明るい沖田がこのときだけは声を上げて泣いたという。
一般に近藤、土方、沖田の三人が非常に親しく、特に土方と沖田は兄弟の
ような関係であったと思われているが、これも司馬遼太郎、子母澤寛の創作
によるところが多い。
土方と沖田が特別親しかったことを示す資料自体は存在しないが、沖田が
土方の手紙の執筆代理をした記録が残っている。
一方、阿部十郎の言として「近藤の高弟の沖田総司、大石鍬次郎という者
はまことに残酷な人間でございまして、もとより国家朝廷のあるを知らぬ
ようなもので」(『史談会速記録』)と、岡田以蔵などと同様に思想的背景を
持たない“人殺しの道具”として非難する声もある。
しかしながら阿部らは新選組と敵対し彼らを憎む立場であったためいささか
行き過ぎた批判であることは否めず、一般的には沖田は師である近藤に
忠実だったか、または単に任務に忠実な隊士だったと考えられている。
また、沖田に剣技を教えられてた人には「荒っぽくて、すぐ怒る」というような
性格で、師範の近藤より恐れられていた。
ほかに「刀で斬るな!体で斬れ!」と教えていた等の言い伝えもあり、その他
の記録などをみても記録にある素顔の沖田は巷に広がるやさしくおとなしいと
いったイメージとはずいぶん異なる。
剣技沖田の剣技で有名なのが「三段突き」である。
天然理心流の平正眼の構えから踏み込みの足音が一度しか鳴らないのに、
その間に3発の突きを繰り出したという。即ち、目にも止まらぬ速さで、相手は
一突きもらったと思った瞬間、既に三度突かれていたとする描写が小説などに
多数見られる。
但し、その後同じ技を会得した者が居ないため真相は不明で、そもそも人間の
身体能力ではそうした技を使う事は不可能とする説もある。
『新選組遺聞』における佐藤宣の談話によれば、沖田の剣術の形は師匠の
近藤そっくりで、掛け声までがよく似た細い甲高い声であったという。
ただ、太刀先がやや下がり気味で前のめりの、近藤(腹を少し突き出し気味の
平正眼)とやや異なる構えを取る癖があったとされる。
沖田の剣については、永倉新八が「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、
山南敬助などが竹刀を持っては子ども扱いされた。
恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」
(『永倉新八遺談』)と語ったことが知られているが、新選組内部以外から
の声もある。
小島鹿之助は新選組結成前(文久2年(1862年)7月)に「この人剣術は、
晩年必ず名人に至るべき人なり」(『小島日記』)と述べているし、新選組に
批判的な西村兼文は近藤秘蔵の部下にして、隊中第一等の剣客なり」
「天才的剣法者」(『壬生浪士始末記』)と言い、さらに新選組と敵対した
阿部十郎は
「沖田総司、是がマァ、近藤の一弟子でなかなか能くつかいました」
「沖田総司、大石鍬次郎という若者は、ただ腕が利くだけで、剣術など
はよくつかいました」
「大石鍬次郎、沖田総司、井上、是らは無闇に人を斬殺致しますので」
(『史談会速記録』)など、殊に敵に回した場合に筆頭の脅威となる剣客
あったことが伺える。
ちなみに千葉弥一郎(新徴組隊士で、沖田の義兄と同僚)の言葉に
「われわれからみたらやっと目録(低い段位)くらいの腕前」と、唯一の
否定的見解が見られる。
勿論、北辰一刀流免許皆伝の山南や目録の藤堂を子供扱いというのは
さすがに永倉の言いすぎであろうが、それだけ彼の剣技が凄まじかった
ということなのだろう。
沖田の刀小説などにおいて、沖田総司の所有する刀として「菊一文字則宗」
の名が挙げられる。
これは子母澤寛などの伝記により「沖田の刀は“菊一文字細身のつくり”」
とされていたことから司馬遼太郎が著作『新撰組血風録』の中で創作した
物語が広まったものである。
しかし則宗作の刀は、日本刀が常用されていた当時でさえ非常に貴重な
古刀であり、経済的にも実戦で多用する必要性からも沖田が所有した可能性
はほとんど無いと推察され、研究者の間で取り上げられることはまず無い。
現在では沖田が所有した実際の刀で確認されているのは「加州清光」
「大和守安定」とされている。
あるいは、則宗以外にも幾つか存在した“菊に一”の紋を打った細身の刀
の1つではないかとする説もある。
いずれにせよ他の隊士と同様、在京中に何度か刀を交換した可能性も高い。
美少年作家司馬遼太郎の作品以降、沖田は小説・ドラマなど創作世界に
おいては頻繁に美少年として描かれてきた。
沖田の容貌に関して、現在残っている沖田の肖像画は、沖田の姉のミツが
孫、要氏を「総司にどこか似ている」と称したことから、昭和4年に書かれた
ものである。
八木家の者や新選組に関わった人物の証言では、「美少年であった」とは
書き残してはおらず、容姿に関する記述としては、「ヒラメ顔で笑うと愛嬌が
あり色黒」、「肩の張り上がった」、「猫背」「長身」と書かれたものが残っている。
(『竜馬におまかせ!』『月明星稀 - さよなら新選組』ではこの説に近い設定と
なっている。) この記述から浮かび上がる人物像として、美少年説に疑義
を唱える指摘もある。
沖田が美少年であるというイメージは、剣技の強さが伝承されながら労咳に
より夭逝してしまうというドラマ性に富むその生涯から、そのドラマ性をさらに
演出する要素として沖田を美少年として描いた司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』
をはじめ、その流れをくんだ『幕末純情伝』(美少女として描かれている)など
多数の作品において“剣にめっぽう強い上に明るい性格、その反面、病弱で
色白の美少年”として演出されたイメージが一般的に定着した結果の誤解
とも思われる。
また、多数の映画など映像メディアにおいても常に若手二枚目俳優の役どころ
であった影響も大きいと考えられる。
しかし「総司=ヒラメ顔」説は、佐藤彦五郎のひ孫が、テレビで谷春雄の話に
軽くノってつい口走ってしまったのが始まりらしいのだが、谷は「総司がヒラメ顔」
というのは“のっぺらぼうという意味ではなくて、一族や兄弟の写真がみな目の
間隔が寄っているから”と話している。
ちなみに沖田哲也はこの説を完全に否定している。
彼によれば、沖田家では総司の容姿について「色の白い、小さい男だった」
という風に伝わっているという。

沖田総司の恋創作の世界で沖田は、司馬遼太郎の小説以降、一般に純情な
青年として描かれることが多かった。
町医者の娘とプラトニックな恋愛をするなどの描き方がほとんどで、実際に沖田
の周囲では近藤や土方などのように花柳界の女性の影は見えない。
ただ、井上松五郎の文久3年(1863)4月22日付の日記によると、土方、松五郎、
井上源三郎と共に沖田が新町の廓九軒町吉田屋にて天神(遊女)を買うと
いう記述が見られる為、
必ずしも女遊びをしなかったというわけではないようだ。
また壬生光縁寺には過去帳に「沖田氏縁者」と書かれた女性の記録があり、
これが沖田の恋人ではないかとも言われている。
研究者によるとこの女性は石井秩というで、連れ子(娘)が1人居たという。
沖田はこの女性との間に1女をもうけ、キョウという名を付けたという話も
あるが、決め手に欠けるとも言われる。
なお、新選組にはもう一人「沖田承之進」(慶応元年4月、土方らが江戸で
募集した隊士の1人)という沖田姓の隊士が居り、過去帳の「沖田氏」は
承之進の方では無いか、との説もある。
試衛館で手伝いをしていた女性(気が強い男勝りな性格だったようだ)に
「結婚してくれ」と告白され、「修行中の身ですので」と断ったという逸話も
残っている(その女性は断られたショックでか自殺未遂を起こし、その後
近藤の口利きにより他家に嫁いだようだ)。
この女性は近藤周平の許婚であったと言われる岩田コウという説もある。
また、油小路にあった旅館里茂の娘・キンとは馴染であったと言われている。


発病時期沖田総司といえば、創作作品において必ずといって良いほど
池田屋での戦闘中に激しく喀血し、倒れこむ。
しかし現在は上述のとおり、研究者の間ではこの説は取られていない。
同事件で沖田が喀血したと明記するのは『新選組始末記』(子母澤寛)
のみで、沖田は事後の長州残党狩り(明保野亭事件参照)にも参加
しているし、翌月の禁門の変にも近藤・土方・武田・永倉と共に出動して
いた記録(『甲子戦争記』西村兼文)があり、喀血するほど労咳が進行
していたら、無理を強いて出動させるとは思えないのがその理由である。
一方、慶応2年(1866年)頃、幕府典医松本良順が新選組を集団検診
した際に「肺結核の者が1名居た」と記しており、これが沖田総司では
ないかとする説もある。
慶応3年(1867年)には周囲が認識し得るほど発病していた模様で、
2月頃罹病したとする『両雄実録』(小島鹿之助)、不動堂村へ屯所を
移転した9月頃に大病を患ったとする『壬生浪士始末記』(西村兼文)、
さらに10月13日付で小島鹿之助が近藤へ送った書簡にも沖田の異常を
気遣う文面が見られる。以上から、沖田が戦闘に耐えがたいほど重篤
な状態に陥ったのは、慶応3年秋~冬頃であったと思われる。
なお、『新選組始末記』をはじめとする池田屋喀血・昏倒シーンの元と
なったのは永倉新八の『新選組顛末記』と考えられるが、こちらには
吐血・喀血の文字こそ見られないものの沖田が昏倒したことが記されて
おり、初夏の蒸し暑い異常な高温下での激しい戦闘によって一時的に
軽度の熱中症を起こした等、少なくとも近藤や永倉など周囲の者には
肺のほうの異常は感じさせない状態であったと考えられている。