2008年12月4日木曜日

尾形 俊太郎



おがたしゅんたろう、生没年不詳は、新選組隊士。
沖田総司や永倉新八などと同様の大幹部。諸士取調兼監察及び文学師範。
五番組組頭、副長助勤、目付も務めている。
肥後国熊本藩出身。緒方、小形とも。


新選組入隊は文久三年(1863年)五月二十五日以降。

同年六月の編成では、副長助勤を務めている。
八月十八日の政変に参加したものと考えられるが、元治元年(1864年六月の
池田屋事変には不参加である。
屯所警備に重んじていたか、もしくは当時隊内に病人が多かったらしいことから、
尾形もその一人とも考えられる。

同年十二月に長州征討を考えた行軍録では、五番組組頭に就任している。
近藤勇の信頼が厚かったようで、初期より重用され、元治元年に江戸への隊士

募集行きや、慶応元年(1865年)と慶応二年(1866年)の二度に渡る長州出張に
例外なく随行している。
慶応元年四月の編成では、諸士取調役兼監察方及び文学師範に就任し、文官
として高く評価されていたようである。

慶応三年(1867年)六月の幕臣取立では、副長助勤として見廻組格となっている。
慶応四年(1868年)一月に勃発した鳥羽・伏見の戦いでは目付を務め、大阪に

敗走後、江戸に帰還。
その後も在隊し、甲州勝沼の戦いを通して会津にへ向かい、同年八月二十一日の
母成峠の戦いで敗走。
二十二日に斎藤一こと山口次郎ら38名と共に会津若松城下外堀外の斉藤屋に
宿泊した記録を最後に消息を絶った。
会津まで新選組に同行した副長助勤は、この尾形と斎藤のみである。

2008年12月1日月曜日

原田 左之助




天保11年(1840年) - 慶応4年5月17日(1868年7月6日)は、新選組十番隊組長。
伊予松山藩出身。諱は忠一。谷三十郎から種田流槍術を教わり免許皆伝。

伊予松山藩の中間だったが、のちに脱藩。
少々、短気な人物であったようで、ある武士と喧嘩をして
「腹を切る作法も知らぬ下司め」と言われ、腹を切って見せた。
傷は浅かったので命に別状は無かった。
その傷から、「死損ね左之助」と隊内でアダ名されたようである。
腹に一文字の傷が残ったが、天気の良い日には傷を日にさらしながら
「てめぇたちのようなヤワなとは違うんだ。
俺の腹は金物の味を知ってるんだぜ」と言っていた。
これを元に家紋を○に切腹傷の一文字を入れた形にした。
しかし、その反面、愛妻家であったともいわれている。

かなりの美男子だった。
永倉新八とは仲が良かったようだ。
また、かなりの暴れん坊だったこともあり、酒を飲んでは腹の傷を
自慢したり、大声で 「切れ切れ!」と叫んだという。


長州の間者(スパイ)だったという楠小十郎を背後から斬り殺して
「あぁ、良い気持ちだ」と言って 笑っていたので、あとで近藤に酷く叱られた。

新選組近藤勇の江戸道場、試衛館以来の生え抜き隊士で十番隊組長となる。
種田流(または宝蔵院流)の槍の名手として知られた。
副長の土方歳三は、一番隊の沖田総司と十番隊の原田左之助を信頼して、
よく使ったという。
殿軍の組長として十番隊を指揮し主だった新選組の戦闘には原田の名が
必ずあり活躍している。
(芹沢鴨一派の粛清、長州の間者・楠小十郎斬殺、大阪西町奉行与力・内山
彦次郎暗殺、 池田屋事件、禁門の変、三条制札事件、油小路事件など)

一時は、坂本龍馬暗殺(近江屋事件)の下手人として疑われたが
(暗殺現場に落ちていた鞘を 伊東甲子太郎が原田の差し料と証言したため。
また、下手人が伊予の国訛りの言葉(「こなくそ!」)を発したのを聞かれたため)
実際は龍馬暗殺と 新選組とは関係がなかったといわれている
(京都見廻組であるとの説が有力)。

2004年のNHK大河ドラマ『新選組!』の中では、坂本龍馬暗殺犯が原田であると
いう当時の伝聞を 上手く利用した描かれ方がされていた。
鳥羽・伏見の戦い、甲陽鎮撫隊まで新選組として戦いその後、永倉新八と共に

靖兵隊結成。
だが、なぜか江戸を離れてから用を思い出したと江戸に戻って彰義隊に加入、
上野戦争の際に 負傷し、その傷がもとで明治元年5月17日に死亡する。
享年29。しかし、何故か隊の名簿に原田の名は載っていなかった。






馬賊伝説異説があり、日清戦争のときに松山で昔語りをする老軍人がいて
「私は原田左之助だ」と 名乗ったと伝わっている(日露戦争の時も)。
原田は上野、新潟、下関、釜山を経て大陸へ渡り馬賊の頭目になったという。

明治40年頃の新聞で報じられたが真偽は不明。
その他息子の名前は茂、この茂という名は江戸幕府14代征夷大将軍徳川家茂

から 一文字取ったと いわれている。
妻のおけいは昭和6年ごろまで生き、沢山の孫たちに見守られる中に

亡くなったとされる。




2008年11月20日木曜日

鈴木 三樹三郎



すずき みきさぶろう
天保8年7月15日(1837年8月15日) - 大正8年(1919年)7月11日)
新選組九番隊隊長。
また伊東甲子太郎(鈴木大蔵)実弟。
剣術は神道無念流。
御陵衛士、軍務局軍曹、酒田警察署長、福島県二等属、福島県学務課長など。
常陸志筑藩出身。

道場かなりの酒好きで、若い頃、いったん他家に養子入り(寺内多聞と称す)した
ものの、本人の素行の問題より養子縁組を取り消されている。
その後、三木荒次郎を名のっていた。

その後脱藩して、江戸深川の道場主であった兄伊東甲子太郎の道場で学ぶ。
新選組元治元年10月、近藤勇が帰府した際、その隊士募集に応じ、藤堂平助の
仲介で兄の甲子太郎らと加盟して上洛。
新選組時代は三木三郎、三木和泉と称す。
慶応元年 組織再編で九番組長となる。
剣術はあまり冴えなかったようだが、学問があり弁舌では兄と遜色なく、胆力が
あったようだ。

非常に丁寧な性格だったようで、その性格が災いして降格させられたとも
いわれている。

御陵衛士
慶応3年3月20日 兄の甲子太郎らと新選組から分離、御陵衛士
(高台寺党)に属す。
この頃、三樹三郎と改めた。
同年11月18日、甲子太郎が新選組によって暗殺。
屯所に居合わせた同志らと遺体収容に駆けつけるが、待ち伏せていた新選組との
乱闘を切り抜け薩摩藩邸に保護される。(油小路事件)
一ヶ月後の12月18日、高台寺党の残党が伏見黒染周辺で近藤勇を襲撃。
右肩に銃創を負わせた。
しかし、この事件に三樹三郎が参加していたかどうかは不明とする説もある。

鳥羽・伏見の戦い
慶応4年1月3日 鳥羽・伏見の戦いでは薩摩藩の中村半次郎の指揮下に入り、
土方歳三が指揮する伏見奉行所の新選組と戦った。
その後、幕府追討のための東征軍の先鋒隊に合流する。
この東征軍は1月10日から赤報隊を名乗り、2番隊の隊長になる。
しかし2月に解隊。
偽官軍との誤解を受けて一時入牢の後、徴兵七番隊に加わった。
同年六月に軍務局軍曹に任じられる。
明治以降明治2年7月 弾正台少巡察となる。
廃藩置県後、名前を忠良に改め、明治12年 鶴岡警察署長に任命され、
明治14年の天皇行幸の指揮を執った。
その後司法、警察の仕事に携わり明治18年1月の福島県二等属を最後に退職。
現在の茨城県石岡市で余生をすごす。
大正8年7月11日 老衰のため死去。享年83。
墓は茨城県石岡市の東耀寺にある。

2008年11月18日火曜日

藤堂 平助



とうどう へいすけ







弘化元年(1844年) - 慶応3年11月18日(1867年12月13日)は、新選組8番隊組長。
のち御陵衛士(高台寺党)。
一本気な青年で、尊王攘夷論者であったようだ。
藤堂の性格については、江戸っ子で有意の人材であり
(御陵衛士同志鈴木三樹三郎談)、経済に達し戟剣をよくする
(学問においても武術においても秀でていた)、等といった記録が垣間見られる。
加えて江戸育ちらしい洒落っ気があったのか
「品行はよろしくないが人物がしっかりしている」との記述も。
容貌については、小柄で美男子であったらしい、と、伝聞を書き留めた記録
が残っている。
藤堂和泉守の落胤?武蔵国江戸出身。諱は宜虎(よしとら)。

永倉新八の同志連名記、及び京都在留当時の風聞書によれば、
伊勢・津藩主藤堂高猷の落胤といわれているが真相は不明。
また津藩の支藩である伊勢久居藩の家老藤堂八座の子とも云い、通称の「平助」
藤堂家功臣の名乗りを嗣いだものとも伝えられる。

これは藤堂の佩刀であった上総介兼重と銘打たれた長刀が藤堂藩お抱え刀工で
あったためであるらしい(会津藩庁新撰組御一行刀改控より。
藤堂の刀は上出来作であったらしい。但しこの差料は池田屋事件の激闘の為に
修復不可能なほどにぼろぼろになったそうである)。
ただ、上総介兼重は一介の素浪人が持てるような(安価な)刀ではないことを
考えると、ご落胤の可能性は高いとも考えられる。
北辰一刀流目録であったといわれている。

千葉道場玄武館の門弟とされているが、後の御陵衛士同志の加納鷲雄証言では、
「(深川にあり、伊東甲子太郎のやっていた)伊東道場の寄り弟子」であったという。
しかし、伊東道場についての詳細な史料は現存していないようで、こちらも詳細は
不明ようである。
ただどちらにしろなんらかの理由で免許を授かるまえに道場に
顔を出さなくなっている。
魁(さきがけ)先生近藤勇の道場 試衛館以来の(と、新撰組顛末記に記載されて
いる)いわゆる生え抜き隊士で、新選組結成当時からの同志。
藤堂は小柄で美男子ながら勇猛果敢な男であったらしい。
剣の腕もかなりのもので初期は沖田総司、永倉新八とともに近藤四天王とも称
され、市中見回りにおいては常に先頭を歩いたという。

魁先生という名はどうもここからきたようだ。
礼儀作法を備えている反面、品行は悪かったらしい。
御陵衛士時代は侠客300人を束ねていた。
試衛館時代から近藤に品行の事でいつも注意されていたようで、近藤はだんだん
品行の悪い藤堂を疎外していったとされている記述もある。
彼の新選組在籍当時において特に目立った活動を示す史料は見つかっていない。
北辰一刀流を学んだというから(同流派の道場ではたいていどこでも上下関係が
厳しかったそうである)、おそらく礼儀作法を身に着けていただろう藤堂は、もしか
すると局内で接客応対や事務処理などを担当していたのかもしれない。
池田屋事件では油断をして鉢金を取ったところを斬りつけられ額を負傷したという。
それまでの奮戦は凄まじかった(最初に斬り込んだ四人の内の一人)ようで、
佩刀はぼろぼろになり、鍔元には修復は不可能なほどのひび割れを負った。
事件後、近藤勇、土方歳三に次いで褒賞金を幕府から下賜されている
(この金子をなかなか受け取らなかったという説がある)。

元治元年11月、新選組は江戸にて大規模な隊士募集を行った。
藤堂はこれ先立って、志願者を集るため江戸に下った。9月初旬に藤堂が入隊の
誘いに来たと、当時伊東道場に出入りしていた加納の証言がある。
この道場の主、伊東大蔵(後の甲子太郎)は、どうもかねてから親交があった
ようである。

御陵衛士藤堂の転機が訪れたのは、いつだったのか。
慶応元年の2月。新選組創設時からの同志で北辰一刀流の同門、総長 山南敬助
の脱走・切腹事件があった(異説あり。山南は脱走していなかったのではないかと
いう説も存在する)。
これが彼の人生指針にどのような影響を及ぼしたのかはわからないが、
慶応3年3月 伊東甲子太郎と共に御陵衛士(高台寺党)を結成すべく新選組
を離脱している。

慶応2年時の彼が何をしていたのかについては今のところ明確な資料は残って
いないが、新選組離脱当日は、どうも美濃国へ出張していた様子である。
後に御陵衛士に民兵を貸しバックアップ等に尽力することとなる水野弥太郎という
侠客が美濃にいたことから、どうも、後の下地を作るために彼と会っていたのでは
ないかと思われる。

御陵衛士とその他随行同志たちとは、美濃から戻ったそのままの足で合流した
ようである。
御陵衛士時代の彼の活動についても、記録は残っていないようである。

ただ、藤堂は「南部弥七郎(弥八郎という場合もあったようだ)」と改名している
ことから、おそらくは新選組時代に負った風評が同志の活動に及ぼすであろう
悪影響を懸念し息を潜めていたのかもしれない。
御陵衛士同志たちは伊勢や西国など、様々な場所に遊説をしているが、そのどれ
にも藤堂は加わった形跡が無い。
唯一、美濃の侠客水野弥太郎の元を訪れて博徒中心の、民兵300名を軍隊風に
指揮指導していたらしいとの記録がある。
慶応3年11月18日、油小路で新選組に討たれる(油小路事件)。
永倉新八の証言(新選組顛末記)によれば、彼が油小路に向かう前、近藤の口
から「藤堂だけは生かしておきたいものだな」と聞き(維新のずっと後、明治後期
の新聞記者による遺談をまとめた新聞での連載記事であることから、後の創作
の可能性が高い)、藤堂が逃げられるように道をあけたが、事情を知らぬ隊士
三浦常三郎に斬られた(これも異説あり。
上記顛末記によれば、三浦は油小路の後悔恨のあまり藤堂に受けた傷が悪化し、
心身を病んで死んだとされるが、永倉新八の同志連名記によれば、彼は戊辰戦争
中に大阪近郊で死亡とされている)。
子母澤寛の『新選組始末記』によると、永倉の深意はくみ取ったものの、魁先生
と呼ばれたプライドと同士を見捨てられないので、新選組に立ち向かって
三浦常三郎に斬られたとある。 また永倉の深意を汲み取り、退こうとしたところを
三浦常三郎に後ろから斬られた。
このため藤堂は応戦(後ろから背中を斬られるのは武士の恥なので藤堂は許せ
なかったと)して数々の傷を負い、戦死したとされる説もある。
ちなみに事件後の検死結果によると、額から鼻にかけて断ち割られ、傷は長さ
約21㎝、深さ6cmに達し、ほぼ即死の状態であったとされる。
墓碑には享年24と記載されている。 墓は戒光寺にあり、同志で同日共に討ち死
にした伊東甲子太郎、毛内監物、 服部武雄と同じ敷地内に埋葬されている。
益荒男の七世をかけて誓ひてし ことばたがはじ大君のため - これは藤堂が
読んだ最後の短歌とされる。
生存説昭和55年「歴史と旅」11月号、谷春男執筆の「油小路の藤堂平助」
によれば、藤堂は九死に一生を得て包囲網から脱出したとされている。
その後、経緯は不明だが横浜に居住しており、どういう繋がりかはわからないが、
藤堂の親戚の娘が嫁入りした関係か、小田原の万福寺にちょくちょく遊びに
来ていたという。 横浜では、旧新選組隊士の川村三郎と共に、水道工事事業に
絡む利権で一儲け したといわれている。
その後大正11年から12年頃、横浜で没したという。
息子がいたらしいが名前はわかっていない。

2008年11月17日月曜日

谷三十郎



谷三兄弟幼少の頃、父・谷三治郎より剣術を学んでいた。
槍も使ったという話があるが、これは弟・谷万太郎のことと混同された
可能性もある。
備中松山藩主板倉勝静に仕えていたが、安政3年(1856年)頃、
不祥事により谷家は断絶。
これは三十郎本人でなく弟の万太郎の不祥事とも言われ定かでない。
新選組新選組への入隊は池田屋事件以前で、池田屋事件の際は
近藤隊に属している。
元治2年(慶応元年)1月、大阪取締りの際、弟・万太郎ら四人で
尊攘過激派による大阪焼き討ち計画を未然に防いでいる。
(ぜんざい屋事件)
その後同じ慶応元年、7番隊組長に抜擢される。
(この時槍術指導は弟・万太郎の役職とされる)
槍谷三十郎の槍は「千石もの」と言われたと伝わるが、逆に実戦では
ほとんど活躍していないただの道場槍であったとも見られている。
(あるいは弟・谷万太郎と混同されたとも考えられている。)
三十郎が隊士の切腹の際の介錯を失敗したと言う話も伝わるが、その
隊士が切腹するのは記録では三十郎の死後の事であるため、信憑性
は乏しい。
死因慶応2年4月1日、三十郎の死体が東山の祇園社
(現在の八坂神社)石段下で発見された。
死因は「頓死」とだけあり、明らかではない。 暗殺説、病死説の
二つの説もある。

2008年11月16日日曜日

井上 源三郎



(文政12年3月1日(1829年4月4日) - 慶応4年1月5日(1868年1月29日)は、
新選組六番隊組長。諱は一武(かずたけ)。

源三郎は生真面目で誠実な人物だと伝わっている。
彼に関しては、たとえば、壬生で沖田総司が子供たちと遊んでいる時に源三郎が
通りかかり、 総司が「また稽古ですか、熱心ですね」と声をかけると、「わかって
いるなら稽古をしたら良いのに」 とたしなめた、といったエピソードが残っている。
また八木為三郎は「井上はその頃四十歳くらいで、ひどく無口な、それでいて
非常に人の良い人でした」 といった意味のことを語っている。
無口だが温厚な性格で、若い隊士からの人望も厚かったという。
一方で頑固な面もあり、一度言い出すとテコでも動かないところがあったともいう。

武州日野宿北原(ひのじゅくきたばら/現在の東京都日野市日野本町)に
八王子千人同心世話役の井上藤左衛門(松五郎とも)の三男として生まれる。
兄・松五郎は千人同心。

試衛館弘化4年(1847年)頃、源三郎は当時多摩に広まりつつあった
天然理心流の三代目宗家・近藤周助に入門する。
土方歳三の義兄、佐藤彦五郎が天然理心流の出稽古用に設けた道場で土方らと
共に稽古に励んだ。
また、近藤勇の兄弟子でもあった。
彼らとは、この時期以来親交を深めていったとされる。
万延元年(1860年)、免許皆伝を受ける。

新選組文久2年2月、清河八郎献策の浪士組に近藤・土方らと参加。
文久3年9月の芹沢鴨一派の粛清後は副長助勤となり、以後、新選組の幹部で
あり続ける。
同郷・同門の局長近藤や副長土方をよく補佐し、お互いに絶大な信頼で結ばれ
ていた。
隊内では主として対外的な職務や要人の接待などの総務を担当。

元治元年6月の池田屋事件では土方隊の支隊を指揮し、近藤隊が斬り込んだ
知らせを受けると十人の部下と池田屋に入り、八人の浪士を捕縛するなど活躍
した。
剣豪揃いの新選組にあって、源三郎の剣は目立たなかったが、自分の立場を
よく理解し、落ち度無く任務を遂行する人物であったようだ。

慶応元年6月の組織再編成で六番隊組長に任じられる。
慶応3年6月、新選組総員は幕府直参に取り立てられるが、その際源三郎は
副長助勤として七十俵三人扶持を与えられる。
しかしその後の幕末政局は、大政奉還、王政復古の大号令と続き、佐幕派の

新選組に属する源三郎らは劣勢に立たされていく。

淀千両松の戦い慶応4年1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発する。
新選組は伏見に屯所を移していたが、淀まで退却。
1月5日、淀千両松で新選組は官軍と激戦(淀千両松の戦い)。
その戦いの最中、敵の銃弾を腹部に受けて戦死した。享年40。

甥である井上泰助が源三郎の首を持ち帰ろうとしたものの、あまりの重さの
ために仲間の隊士から諭されて、戦場の近くの寺院の境内に源三郎の首を
埋葬したというエピソードが伝わっている

その他首と刀は甥の井上泰助が近くの寺院に埋めたとされるが、いまだに
正確な場所は不明である。なお、墓所は日野市の宝泉寺となっている。



2008年11月15日土曜日

武田 観柳斎


天保元年(1830年)頃 - 慶応三年6月22日(1867年7月23日)
は、出雲国母里出身の新選組隊士。
五番隊組長、兵学・文学師範、軍事方(軍奉行)。
本名は福田廣。徳裕とも。

脱藩ののち江戸に出向き、甲州流軍学を学ぶ。
甲斐武田氏にちなみ、「武田観柳斎」を名乗るようになる。
文久3年(1863年)に入隊。軍学者として近藤勇に重用され、翌元治元年(1864年)
には 副長助勤として幹部に抜擢。
同年6月5日の池田屋事件の際、武田らは長州人などの潜伏浪士に便弁を図って

いた 古高俊太郎を捕える。
その後近藤隊に属し、池田屋の周囲を固めた他、戦闘時は土佐浪士・大秋鼎を
斬殺し、 褒賞金を賜っている。
7月19日の禁門の変では、軍事方として戦略担当幹部となり、天王山攻略などで
甲州流軍学を発揮した。

慶応元年(1865年)の組織再編で五番隊組長になる。
隊では甲州流軍学をふるい隊士の訓練を行っていたが、その巧みな弁舌で幹部

連中に 媚びへつらう姿に嫌悪感を示す隊士も少なくなかったという。
その後、新選組が幕府に準えて洋式調練を取り入れたことにより、武田の軍学は
徐々 に時代遅れのものとなっていった。
隊内での立場を失った武田は、脱退を図って伊東甲子太郎に接近したり、倒幕派

である 薩摩藩との接触も企てるなどした。
しかしそれらの行動を近藤や土方歳三らに看破される。

慶応3年6月22日、除隊を申し出た武田の送別会と称し、近藤が宴を開いた。
しかしこれは、無論武田暗殺の宴であった。
宴の後、斎藤一、篠原泰之進が武田を送ることになり伏見薩摩藩邸に共に
向かった。
途中鴨川銭取橋で斎藤一によって暗殺された (この暗殺者には諸説あり、
当時斎藤らは御陵衛士に加わっており、暗殺したのは別の隊士の可能性
もある)。
後日、加藤羆という隊士が武田観柳斎に同心したとして、
切腹させられている。