2008年11月6日木曜日

武田 観柳斎


武田観柳斎が斎藤一に斬られた銭取橋(勧進橋)
武田 観柳斎
(たけだ かんりゅうさい)
天保元年(1830年)頃 - 慶応三年6月22日(1867年7月23日))は、出雲国母里
出身の新選組隊士。五番隊組長、兵学・文学師範、軍事方(軍奉行)。
本名は福田廣。徳裕とも。
脱藩ののち江戸に出向き、甲州流軍学を学ぶ。甲斐武田氏にちなみ、
「武田観柳斎」を名乗るようになる。
文久3年(1863年)に入隊。軍学者として近藤勇に重用され、翌元治元年
(1864年)には副長助勤として幹部に抜擢。
同年6月5日の池田屋事件の際、武田らは長州人などの潜伏浪士に便弁を
図っていた古高俊太郎を捕える。
その後近藤隊に属し、池田屋の周囲を固めた他、戦闘時は土佐浪士・
大秋鼎を斬殺し、褒賞金を賜っている。
7月19日の禁門の変では、軍事方として戦略担当幹部となり、天王山攻略
などで甲州流軍学を発揮した。
慶応元年(1865年)の組織再編で五番隊組長になる。
隊では甲州流軍学をふるい隊士の訓練を行っていたが、その巧みな弁舌で
幹部連中に媚びへつらう姿に嫌悪感を示す隊士も少なくなかったという。
その後、新選組が幕府に準えて洋式調練を取り入れたことにより、武田の
軍学は徐々
に時代遅れのものとなっていった。
隊内での立場を失った武田は、脱退を図って伊東甲子太郎に接近したり、
倒幕派である薩摩藩との接触も企てるなどした。
しかしそれらの行動を近藤や土方歳三らに看破される。
慶応3年(1867年)6月22日、除隊を申し出た武田の送別会と称し、近藤が
宴を開いた。しかしこれは、無論武田暗殺の宴であった。
宴の後、斎藤一、篠原泰之進が武田を送ることになり、伏見薩摩藩邸に
共に向かった。
途中鴨川銭取橋で斎藤一によって暗殺された(この暗殺者には諸説あり、
当時斎藤らは御陵衛士に加わっており、暗殺したのは別の隊士の可能性
もある)。
後日、加藤羆という隊士が武田観柳斎に同心したとして、切腹させられて
いる。
エピソード武田は男色家であったという説があり、「武田が隊中美男五人衆
のひとり・馬越三郎を追い掛け回した結果、馬越が土方に除隊を申し出た」
という話が伝わっているが、これは子母澤寛の「新選組物語」に登場する
エピソードであり、フィクションとする見方が強い。

2008年11月4日火曜日

殿内 義雄


殿内 義雄
天保元年
(1830年)
~文久3年3月25日
(1863年4月29日))
江戸時代・幕末
の人物。
浪士組の一人。
結城藩士の子、
あるいは殿内村(現在の千葉県山武郡)の豪農・土屋忠右衛門の子として生まれた。
江戸(現在の東京)の昌平坂学問所(現在の東京大学に相当。)で学問を究めた。
また、屈強剛権な体格で、剣術の腕にも優れていたという。
文久3年(1863年)、清河八郎発案の浪士組に参加し、役職(目付役)を与えられ
るが何らかの落ち度で降格。
京(現在の京都市)に上りいざこれからという時に、清河は浪士組を率いて江戸
へと帰って攘夷を行おうとした。
それに賛同し、多くの者が清河に付き従った。
また、その動きとは別に、鵜殿鳩翁から、家里次郎と共に浪士組内の壬生村
での残留者の取りまとめの責任者の役目を任される。
(殿内と家里は、募集する側の責任者だったので、名簿に記載されていない。)
芹沢鴨・新見錦(田中伊織)・平山五郎・粕谷新五郎・平間重助・野口健司ら
水戸藩出身者、阿比類、近藤勇・山南敬助・土方歳三・永倉新八・原田左之助・
沖田総司・井上源三郎ら試衛館道場の者、斎藤一・佐伯又三郎ら京で参加した
もの、根岸友山・清水吾一ら根岸派が結集する。
最初の壬生浪士の筆頭格であったが、近藤勇に激しく憎まれた(近藤が何ら
かの憎悪を抱き、殿内を討ち果たした、という書簡が残されている。)
せいか殿内自身の資料・伝承に乏しい。
近藤、芹沢、根岸らは、既にそれぞれ派閥を形成していたが、殿内と家里は、
幕府の信用で筆頭格になったので、派閥らしいものはなく(のちの粛清の嵐
など想像もつかなかったことだろう。)、旧知の根岸らと近かったとされている。
殿内は、自前の派閥を形成するために旅に出ようとする際、近藤らにしこたま
酒を飲まされ、京都四条大橋にて闇討ちに遭い命を落とした
(近藤勇と沖田総司に襲われ、沖田に殺害されたという。)。
殿内は、旅支度の姿で刀は袋にしまった状態であったという。
近藤との確執の原因は、諸説あり、殿内自身の人間性に問題があったとする
ものや、近藤の野心の犠牲者になった第一号、芹沢派による粛清など様々。
殿内が殺害されずに健在ならば、新選組もまた幕末史において違った存在に
なったであろう。(殿内の指導力の有無や、それがよいか悪いかは別として。
近藤は、芹沢らをも粛清して、より会津藩寄りに特化されてゆく。)
殿内斬殺事件は、橋の上に倒れた殿内の姿を描いた絵として描かれている。
また、殿内を失った家里は、出奔後、大坂(現在の大阪市)で隊士を募って
いるところを芹沢らに捕らえられ粛清された。
根岸は、殿内死後ほどなく、伊勢参りに行くという理由で壬生村を立ち去る。
(のち根岸は新徴組を経て七十数歳の天寿を全う。)

2008年11月3日月曜日

伊東 甲子太郎


伊東 甲子太郎

(いとう かしたろう、
天保6年(1835年)
慶応3年11月18日
(1867年12月13日))は
、新選組参謀。文学師範。
のち御陵衛士(高台寺党)
盟主。
諱は武明。

幼名祐之。元の名は、
鈴木大蔵(大藏)。
常陸・志筑藩生まれ。


藩を追われ、東大橋(現石岡市)で私塾
「俊塾」の校主、鈴木忠明の長男。
父の塾で学んだのち、水戸に出、金子健四郎
(藤田東湖の推挙で徳川斉昭に仕えた人物)の道場に入門。


神道無念流剣術と水戸学を学び、勤王思想に傾倒する。
道場その後、金子が江戸藩邸に出仕した際、ともに江戸へ出て、金子が蟄居されると、杉山某に就き、のちに深川佐賀町の北辰一刀流
剣術伊東道場に入門。
その後、道場主伊東精一に認められてその跡目を継ぎ、伊東姓を名乗り伊東大蔵(伊東大藏)と称した。
深川の道場は盛んで、門下生も多かったようである。

新選組元治元年(1864年)10月、同門の藤堂平助の紹介で新選組に入隊。
同年十一月弟の鈴木三樹三郎、盟友の篠原泰之進、加納鷲雄、服部武雄、門人の内海二郎、中西昇らと京都へ上る。
この上洛の年が元治元年甲子だったので、伊東甲子太郎と名を改めた。


(甲子太郎は「きねたろう」とも読まれることがあるが、甲子という年は、天意が
革(あらた) まり、徳を備えた人に天命が下される「革令」の年とされそれに
あやかったものであること、 同時代史料に「樫太郎」という表記も見られること
から「かしたろう」が正しい) 新選組では、文武両道、伊東道場道場主という
ことで、参謀兼文学師範に抜擢される。
近藤勇は初歓迎したが、土方歳三は並ならぬ策士と見て警戒したようである。
山南敬助が切腹して死ぬと伊東は4首の和歌を詠んだ。
伊東の弁舌は巧みで、人を納得させるのが上手かったようだ。

伊東と新選組は攘夷という点で結ばれたが、新選組は佐幕派で勤王(倒幕)
説こうと した伊東とは方針をめぐって密かに対立。
(ただし、伊東は新選組離脱後に同志に英語を学ばせている。


勤王も武力倒幕と必ずしも一致しない点には注意)
御陵衛士慶応3年3月20日、薩摩の動向を探るという名目と孝明天皇から

御陵警備任務拝命により、新選組を離脱。御陵衛士(高台寺党)をあらた
に結成。
新選組結盟以来の隊士で八番隊組長の藤堂平助も御陵衛士に参加する。
その後新選組内で失脚しつつあった武田観柳斎らは御陵衛士に加わりたい
願うが、伊東は拒絶した。


慶応三年に四通の建白書を朝廷に提出し、中でも大政奉還の行われた直後
十月 に出された三通目の建白書では公家中心の新政府を作り、一和同心
(国民が一つ になり、議論を尽くして決めること)。


挙国一致を唱え、幕府側の人間も参加させるべきとしているのは坂本龍馬に
近い考 え方)、実務には広く天下から人材を集めること、畿内(近畿地方)
五ヶ国を新政府の 直轄領にすること、国民皆兵などを提唱している。
また、一通目の建白書では神戸開港反対を唱えていたが、三通目では
「大開国、 大強国」を作ることを唱え、積極的開国による富国強兵策に近い
考え方を示している


(ただし、神戸開港は孝明天皇の遺志に反するとしてあくまでも反対している)
また、殺された時に懐に五通目の草稿があり同時代の記録によるとほとんど
三通目の写しに近く、この案で近藤を説得しようとしていたと言われている。
当時の一級資料「鳥取藩丁卯筆記」では、薩摩の吉井幸輔が越前の中根雪江
この建白を「いちいち尤も」と言っていたと記されている。



慶応3年11月18日、近藤は自分の妾宅に伊東を呼び出して酔わせ帰宅途中
油小路で新選組の大石鍬次郎ら数名に暗殺させた(油小路事件)。
絶命地は本光寺の門前。「奸賊ばら」といい倒れたといわれている。
享年33。








酒に酔わせたうえで、多人数で
待ち伏せ、また闇から刺すという
慎重な暗殺方法を取ったのは、
北辰一刀流剣術の道場主で
あった伊東の剣の腕を、近藤や
土方が警戒したからとも言われ
ている。



伊東の遺体は油小路に放置され、
御陵衛士をおびき出す手段として
使われた。
御陵衛士が収容しにやって来たところを、待ち伏せていた新選組と斬りあいになり藤堂らが死亡した。
その際、御陵衛士の一人服部武雄の奮戦はすさまじかったといわれる。


(*参照 相馬主計・後に伊東甲子太郎暗殺容疑で島流し) 死後、従五位を朝廷
より賜る (大正7年(1918年))。
また、昭和7年(1932年)4月に靖国神社へ合祀される。
墓は戒光寺にある(慶応4年3月13日、御陵衛士により光縁寺から改葬された)。

2008年11月2日日曜日

安富 才助







安富 才助(やすとみ さいすけ)
天保10年(1839年) - ?)







安富 才助は、備中足守藩出身の新選組隊士。
大坪流馬術の遣い手で新選組の馬術師範も務めた。後、副長。
陸軍奉行添役。諱は正儀。

元治元年(1864年)10月頃に新選組に入隊。会計方後馬術師範となる。
土方歳三の信頼は高かったもよう。
甲州勝沼の戦い以後は土方と別行動を取ったが会津で合流。

蝦夷地へ渡り、陸軍奉行並に就任した土方歳三の直属の部下となった。
箱館戦争で土方が戦死し、それを看取った安富は、土方家宛の手紙を書いて
立川主税に託した。
旧幕府軍は新政府軍に降伏。

明治3年(1870年)に放免され、元御陵衛士の阿部十郎に殺されたと
伝わっているが、 定かではない。

なお、安富が立川に託した手紙は土方家に現存し、その手紙の中で、安富は
土方への追悼句を書き残している。

早き瀬に 力足らぬか 下り鮎

(ただし、これを土方歳三自身の辞世の句とする説もある)

2008年10月30日木曜日

山南 敬助


やまなみ けいすけ
さんなん けいすけ
天保4年(1833年)
元治2年2月23日
(1865年3月20日)は、
新選組総長(副長)。
陸奥国(後の陸前国)
仙台藩出身。
読みについては
「やまなみ」という読みが
あるが、本人の署名に
「三南」「三男」などがある
ため、さんなんの可能性の
ほうが高い。
また晩年は三南三郎を称していた。
文武両道の人で特に学識があり、温厚な人柄であったという。
「サンナンさん」と呼ばれ親しまれた。
出自
仙台藩を脱藩して、江戸に出たとされているが、仙台には山南もしくは三南
という苗字はないため、確かな事は不明。小野派一刀流の免許皆伝で、
後に北辰一刀流・千葉周作門人となる。
試衛館近藤勇の天然理心流剣術道場試衛館に他流試合を挑み、相対した
近藤に敗れる。
この時、近藤の腕、人柄に感服し近藤を慕うようになる。
以後、試衛館の門人同様に行動を共にする。
試衛館には後の新選組幹部となる土方歳三や沖田総司、永倉新八らが
集っていた。
文久元年(1860年)8月、府中六所宮で行われた近藤勇の天然理心流
四代目就任披露の野試合に赤軍として参加。
翌文久2年正月には、沖田総司と共に小野路に剣術教授に出張している。
新選組文久3年(1863年)2月、将軍警護と尊王攘夷を目的とする清河八郎
発案の浪士組に近藤等と参加、上洛し壬生浪士組の一員となる。
3月26日、隊内の覇権争いで殿内義雄を四条大橋で、近藤・芹沢鴨らととも
に暗殺した。
こうして近藤派と芹沢派の野合によるヘゲモニーとなった壬生浪士組は、
近藤、芹沢が局長となり、山南は近藤派として土方歳三とともに局長助
(副長)に就任する(芹沢派からは新見錦)。
尊王攘夷を目的に結成された浪士組だが、会津藩預かりとなり京の不逞
浪士取締りに専念。
文久3年7月頃、山南は土方と共に呉服商「岩城升屋」に押し入った不逞浪士
数名を激しい戦闘のに撃退。
8月18日の政変にも山南は参加し、2日後京に潜伏する長州系浪士を土方らと
斬っている。
文久3年の9月、かねてより反目していた芹沢鴨らの暗殺に参加。
浪士組は近藤派(試衛館派)によって統一され、組織再編で山南は総長に
就任し、局長近藤、副長土方の間に位置する立場となった。
しかしこの事件以降、後の脱走-切腹まで新選組の活動記録から山南の名は
消える。
元治元年6月の池田屋事件にも、参加していない。(病気説や屯所を守っていた
という説がある。)
元治元年(1864年)11月、伊東甲子太郎らが入隊。伊東は山南と同門の北辰
一刀流で、熱烈な尊王攘夷論者、学識も高かった。
伊東は山南よりも上位の参謀職に付き格別の待遇をうける。

元治2年(1865年)2月、山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残し、新選組を脱走。
新選組の隊規では脱走は死罪である。
近藤と土方は、沖田を追っ手として差し向け、近江国大津で捕捉され、屯所に
連れ戻された。(※脱走では無かったと言う説もある。)
山南の脱走原因は諸説ある。
西本願寺侍臣西村兼文によれば、山南を追い詰めたのは屯所移転問題だった
とされる。
壬生の屯所から西本願寺に移るというもので、隊士が増え手狭になったことも
あるが、西本願寺は勤王の色濃く、長州藩毛利家と関係が親密な寺であった
ため、土方は、一挙にその根を断とうと考えた。
その為、寺側が移転中止を願っても頑として聞き入れなかった。
勤王の志強い山南も強く反対したが、近藤、土方は全く取り合わなかった。
相手にされなかった事に山南は怒り、遂に新選組との決別を決意させたと言
われている。
脱走の背景に尊王攘夷を目的に結成されながら、実際やっていることは志士の
弾圧という新選組のありかたに疑問を感じていたとも言われる。
後に離脱する伊東と密約があったともいわれている。
平成10年に見つかった浪士文久報国記事(永倉新八 手記)より、元治元年
(1864年)6月26日の警備を病気の為に屯所に引き込んでいた根拠ならび禁門
の変について山南の事が一切書かれていない為、病に悩んでいた説もある。
試衛館以来の付き合いである幹部永倉新八や、伊東らに再度の脱走をすすめ
られるが、山南は死の覚悟を決めていた。
永倉の配慮によって、山南が馴染みにしていた島原の天神明里が死の間際の
山南の元に駆けつけ今生の別れを告げたという哀話が伝わっている
(その永倉の手記「新撰組顛末記」や「浪士文久報国記事」などには明里に
ついての記述はなく、子母沢寛の創作という可能性が高いとされている)
元治2年(1865年)2月23日、切腹死。
介錯は山南の希望により、山南が弟のように可愛いがった沖田総司。享年33。
その切腹を近藤が「浅野内匠頭でも、こうは見事にあい果てまい」と賞賛した
という。
山南敬助は新選組の中でも慕われており、あの鬼の副長で有名な土方歳三
でさえも山南敬助の切腹の際には、涙を流したといわれている。
墓は京都の光縁寺にある。
伊東甲子太郎は、山南の死をいたんで4首の和歌を読んだ。
春風に吹き誘われて山桜 散りてぞ人に惜しまれるかな
   吹く風にしぼまんよりも山桜
      散りてあとなき花ぞ勇まし
  伊東甲子太郎
山南は、心優しい性格で壬生界隈では女性や子供達から慕われていたという。
「親切者は山南、松原」という言葉が壬生に明治初期まで残っていた。
『新選組遺聞』によれば「芹沢などと違い、隊内の者にも、壬生界隈の人たち
にも評判が良かった」とされる。
新選組のスポンサー小島鹿之助は「武人にして文あり」と評している。
新選組に対する酷評で知られる西村兼文でさえ「少しく時理の弁(わきま)え
ある者」(「ちょっとは物事の筋道が解かる人」の意味。『壬生浪士始末記』)と
評価している。
小柄で色白な愛嬌のある顔をしていた 新選組が駐屯した家の子どもであった
八木為三郎によれば「丈はあまり高くなく、色白の愛嬌のある顔」であり、
「子どもが好きで、どこで逢ってもきっと何か声をかけた」
(『八木為三郎老人壬生話』)という。
8月18日の政変に出隊する時、近藤や土方は甲冑に身を包んでいるのに総長
である山南には甲冑が渡されず、怒ったが、松原忠司が間に入り山南をなだめた
らしい。
岩城升屋事件(いわきますやじけん) 元治元年1月、将軍家茂警護のため大阪
滞在中、高麗橋そばの呉服商「岩城升屋」(岩木とも)に不逞浪士数名が押し入
った際、土方・山南両名が駆けつけて激しい戦闘の末に撃退した。
この功により、山南は会津候より金8両を賜っている。
山南がこの事件で使っていた「播州住人赤心沖光作」銘の刀(2尺8寸5分=
約86.4cm)は、ひどく刃こぼれし切っ先から1尺1寸(約33.3cm)のところで折れた。
この刀の押し型(魚拓の様に、刀の形を紙に写し取ったもの)が土方の手で
小島鹿之助に送られ、現在も小島資料館にて見ることが出来る
(但し、展示品は模写)。
『維新史蹟図説』によればこの事件で山南は左腕を負傷したとされ、一説には
このときの傷が元で片腕が不自由となったために池田屋事件にも留守居に甘んじ
るなど、武士としての立場を失ったことと近藤や土方とのすれ違いとが相まって、
脱走の原因になったのではないかとも言われている。
しかし一方で、池田屋事件では長州浪士の屯所襲撃に備えて、残留組の最高
責任者として残っただけとする説もある。
なお岩城升屋事件においては、その発生時期を文久3年7月頃とする説や、駆け
つけた隊士が山南1人であったとする説もある。

2008年10月29日水曜日

清河 八郎






天保元年10月10日
(1830年11月24日)
文久3年4月13日
(1863年5月30日)
幕末(江戸時代)の志士で、
浪士組の幹部であった。

出羽国庄内藩領清川村
(現・山形県東田川郡庄内町)
の郷士の斉藤豪寿の子。
幼名元司。諱は正明。
本名は斉藤正明。


生涯
生涯天保14年(1843年)八郎は清川関所役人の畑田安右衛門に師事し勉学に
勤しむ。かなり優秀であったようである。
弘化3年(1846年)には後の天誅組総裁藤本鉄石と会い親交を深めた。
弘化4年(1847年)江戸に出て古学派の東条一堂に師事。
才を認められ東条塾塾頭を命ぜられたが、固辞。安積艮斎に転塾。
その傍ら、北辰一刀流の開祖千葉周作の玄武館で剣を磨き免許皆伝を得え、
江戸幕府の学問所昌平黌に学んだ。その後、清河塾開設。
(江戸市内で学問と剣術を一人で教える塾は清河塾だけであった)
安政2年(1855年)3月から9月にかけて、母親を連れて、清川村を出発。

善光寺、名古屋、伊勢、奈良、京都、近江、大阪、宮島、岩国、天橋立、鎌倉、
江戸、日光などをめぐる大旅行をする。
その記録「西遊草」は、幕末の旅行事情を知るうえでは貴重な資料である。
内容は各国の名士との出会いなどを中心に書かれているが、清河の性格
からか辛辣で手厳しい批評が多い。
万延元年(1860年)に起こった桜田門外の変に強い衝撃を受け、倒幕、尊王

攘夷の思想が強まる。
この事件を契機に、清河塾に憂国の士が集まりだす。
同年、八郎を盟主として虎尾の会結成。

発起人は山岡鉄太郎(鉄舟)他十五名。横浜外国人居留地を焼き討ちし、
尊王攘夷の精神を鼓舞し、倒幕の計画をたてたが、この密計が幕府の知る
ところとなる。
しかも文久元年には八郎に罵詈雑言を浴びせてきた者を斬り捨てたため、
幕府に追われる立場となっていた。

八郎はこのような事情から京都に潜伏したり、東西諸国を遊説してまわり
尊攘倒幕の内約をとりつけにまわった。
その後、松平春嶽(幕府政事総裁)に急務三策(1. 攘夷の断行、2. 大赦の

発令、3. 天下の英材の教育)を上書する。
尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用。浪士組が結成される(234名)。
八郎は上手く幕府を出し抜いた。
文久3年(1863年)2月23日、将軍徳川家茂上洛のさい、その前衛として八郎

は盟主として浪士組を率いて京都へ出発。


京都に到着した夜、八郎は浪士を壬生の新徳寺に集め本当の目的は将軍
警護でなく、尊王攘夷の先鋒にあると述べる。












これに反対したのが、近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らであった
(鵜殿鳩翁が浪士組隊士の殿内義雄・家里次郎の両名に、
京に残留することを希望する者の取りまとめを依頼し、根岸友山、芹沢鴨、近藤勇らが残留し八郎と袂を
分かつ、彼らは壬生浪士(壬生浪)となり、後に新選組へと発展してゆく。)。
二百名の手勢を得た八郎は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て幸運にも
受理された。

このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻す。
八郎は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と
対立していたため狙われていた。

文久3年4月13日幕府の刺客、佐々木只三郎、窪田泉太郎など6名によって
麻布一ノ橋で討たれ首を切られた。享年34。

『女士道』によると首は石坂周造がとりもどし、山岡英子(山岡鉄舟の妻)が
保管し遺族に渡したという。八郎死後、幕府は浪士組を新徴組と改名し
庄内藩預かりとした。




2008年10月28日火曜日

新見 錦


天保7年(1836年) -
文久3年9月13日(1863年10月25日)?)。

水戸藩出身。
新選組局長のち副長に降格。
号は錦山(きんざん)。

新選組の羽織を作るために大坂の平野屋五兵衛から金子を借りた時に、隊長として近藤、芹沢と同格で「親見錦」と署名した。
署名から新見錦の読みがしんみ にしきである可能性もある。


生涯

岡田助右衛門に剣を学び神道無念流免許皆伝を授かる。
文久3年(1863年)2月、清河八郎が建策により上洛する将軍徳川家茂
の警護の
ために組織された浪士組に加盟し、三番組小頭になる。

後に新選組を結成する水戸の芹沢鴨や江戸・試衛館(天然理心流)の近藤勇も
加盟している。
新見の前歴は詳らかでないが、幹部の小頭に任じられていたことから名が
知られた存在ではあったと考えられる。
同じ水戸出身で六番組小頭の芹沢鴨のかねてからの同志とされるが、芹沢
との具体的な関係は不明である。
また、剣術の師である岡田助右衛門も五番世話役として参加している。
新見の組下には井上源三郎、沖田林太郎(沖田総司の義兄)など5人の
多摩系の天然理心流門人が配属された(井上以外は新選組には不参加)。
8日に江戸を出立して23日に入京。
粕谷新五郎(水戸出身)とともに南部亀二郎邸に宿泊。芹沢は近藤とともに
八木源之丞邸に宿泊しており、八木家の子息だった八木為三郎の回顧に
よれば、新見と粕谷は芹沢のいる八木家に入り浸っていたという。
27日に清河が攘夷の真意を明かして江戸帰還を宣言すると、芹沢、近藤
とともに京都残留を表明して離脱。離脱組は芹沢、新見ら5人の水戸系浪士
と近藤、土方歳三、山南敬助、沖田総司ら8人の試衛館門人で、これに
殿内義雄、根岸友山、粕谷新五郎らが加わるがすぐに内部抗争が起きて
殿内、根岸、粕谷らは謀殺・脱退した。
必然的には浪士たちは芹沢、新見ら水戸派と近藤、土方ら試衛館派に大別
された。
浪士たちは京都守護職の会津藩主松平容保に嘆願書を提出して、会津藩
御預かりとなり壬生浪士組を名乗る。
新見は結成当初の編成で芹沢、近藤と並んで局長となった。
4月に大坂の商人から100両借りた(押し借り)したときの添書きでは新見、
芹沢、近藤の名前が並んでいる。
隊士が増えて6月に編成変えが行われた時には、新見は局長から副長に
降格されている。
新見は芹沢と行動を共にする腹心と言われるが、芹沢が引き起こした大坂
力士乱闘事件や大和屋焼き討ち事件には参加しておらず、同じ水戸出身の
最高幹部だが芹沢とどの程度の親密な関係だったか、また壬生浪士組幹部
としての行動の実態はよく分らない。
芹沢や近藤のことをよく覚えていた八木為三郎も新見についてはまるきり
覚えていない、いつの間にかいなくなったと述べている。
そのため影の薄い男だったと言われることもあるが、隊務を怠っていたという
記録があり、ほとんど屯所の八木家にいなくて為三郎と顔を合わせることも
なかったのだろう。
八月十八日の政変では芹沢、近藤らと出動して殿を務めている。
この出動を機に壬生浪士組は新選組(新撰組)と改称した。
新選組幹部の永倉新八が書き残した『浪士文久報国記事』によると新見は
乱暴が甚だしく法令を犯して芹沢、近藤の説得にも耳を貸さなかったという。
子母澤寛の『新選組始末記』によっても新見は遊蕩に耽って隊務を怠り、
隊費と称して民家から強請り(ねだり)を繰り返していたという。
9月13日に新見は切腹させられた。
『新選組始末記』によると悪行の数々を握られて切腹せねば法度に照らして
斬首すると詰め寄られ、遊蕩先の祇園新地の料亭山緒でついに切腹させら
れたという。
『浪士文久報国記事』によれば一同相談のうえ切腹と決まったが、またも
三条木屋町の旅宿で水戸浪人吉成常郎に乱暴を働いたため梅津某の介錯
で切腹させられたことになっており、真相はよく分からない。
日付も『浪士文久報国記事』では8月14,15日となっており、判然としない。
明治になって倒幕派尊王攘夷志士を祀るためつくられた霊山護国神社に
倒幕派の敵だったはずの新選組幹部である新見が祀られていることから、
切腹は単純な乱暴狼藉ではなく水戸や長州、土佐などの尊王攘夷派との
親密な関係があったからではないかという説もある。
新見の死の僅か3日後の9月16日に芹沢と水戸派の平山五郎が試衛館派に
襲撃・暗殺されており、新選組の水戸派は壊滅した。
田中伊織新選組隊士・田中伊織と新見錦を同一人物とする説もあるが、
定かではない。
近年では水戸浪士の新家粂太郎が新見錦であるという説も出ている。
田中伊織の墓は壬生寺にある。